月曜
四限、五限と出る。五限は映画の編集技法について。無表情のおっさんの顔をアップで捉えたショットから、棺で眠る女性のショットを挟んで再び最初の顔を捉えたショットに戻る。するとはじめと同じショットであるにも関わらず、どこか悲しげな表情に見える。つまり、ショットのつなぎ方によって、それぞれのショット単体では読み取れなかったような、なんらかの意味が、不可避的に観客によって生成されてしまうこととなる。そのような効果を総称して、ロシアの映画監督クレショフにちなんで、クレショフ効果と呼ぶらしい。これは映画的現実を構成する上での基本中の基本なんだろうが、意外と見落としがちというか、僕自身どこかで聞いた事があったような気もするが、今まであまり意識したことがなかった。要するに映画的現実、映画における物語は全てある意味では詐偽なのだ、という前提、これを確認する必要があるだろう。ショットをつないで編集を行なう上で、クレショフ効果と一切無縁であることは不可能である、という事実を考えると、先週持ち上がった、なぜある種の映画監督は長廻しにこだわるのか、という問題を考えるためのよい材料の一つにもなるような気がする。

このクレショフ効果の問題は何も映画だけでなく物語全般に当てはまることで、例えば昨日立ち読みした「小説の設計図」の中原昌也論なんかともつながってくる話だと思う。「点滅・・・」の中には、繰り返し「田辺さん」という呼び名で呼ばれる人物が登場する。しかし、それら「田辺さん」と小説内で名指された人物は、それぞれ全て同一人物とは限らない、という問題が執拗に扱われる。思い出の品だと思っていた喫茶店の置時計が、二度目の喫茶店の場面においては、単なる置時計にしか見えなくなる、という場面。その他似た特性を持ついくつかの場面を通して、言語の表象/代表システムの恣意性がひたすら告発される。そこから考えると、彼の芸風ともいえる過剰なまでの韜晦に満ちた語り口、自分の書く小説はサギだ!云々が単なる恨み節としてではなく、「書く事」に対する真摯な態度として読み直せるようになるのでは、とかなんとか、そういった話。

ようするに、あらゆる物語はある種の詐偽的要素を含んでいる。それは間違いない。映画ならショットをつないだらそこには意味が不可避的に生成されてしまうし、小説ならそもそも言葉の表象システム自体がある種の恣意性を持っているし。
現代の文学においては、そういった前提からスタートして、その詐偽性を自覚しつつ、安易に物語性を呼び込んでしまわぬよう様々な工夫を凝らして勝負するのが、メタフィクションや、ヌーヴォーロマン(なんも読んだ事ないけど)あたりの、所謂実験的だの前衛的だのと呼ばれる小説で、一方で詐偽性に対して開き直り、良質な物語に回帰しようとする動きもまた存在するように思う。

最近は個人的には後者の流れに興味がある。相対化されてなおある単純な物語に回帰していく感じ。そしてなおかつそれが心から好きだと思えれば、別にことさらにポストモダンがどうしたとかさけばなくても平気、という感覚に達することができると思うのだがどうだろう。その流れでいうと、やはり最終的に目指す地点は「誠実な詐欺師」ってことになる。まあまだしばらく読まんけど。実際には、世の中はどこかで諦念や相対化を通過しているわけでもない、ベタベタな表現に溢れている部分もあるので、それはどうにもならんなあとも思うが、そんなもんを見たり読んだり聴いたりしているほどの暇は僕にも無いので無視無視。

あとクレショフ関連で気になるといえば、ジャンクー、アピチャッポンあたりの感覚か。これはもう少しよく考えないと。

五限後偶然会った友人とサイゼリヤで夕食。ひどいもんを食べて土曜の飲み会での悪酔いぶりについて他人事のように聞き、学校に戻って図書館が閉館するまで、新約聖書を読んで過ごす。帰ってユーロ観て寝た。

火曜
則文に行こうかとも思ったがさすがに厭きてきたのでやめる。
ドイツ文化センターの、ファスビンダー特集に誘われたのでそっちに行く事に。
夕方早めに家を出てツタヤでレアものを借りて、青山一丁目へ。駅構内喫茶店で聖書を読んで時間つぶし。昨日からでとりあえずマタイ、マルコ、ルカによる福音書を読み終えた。はじめてちゃんと読んでいるが、なかなか読み物として面白いという事実に驚いた。さすがによく出来ている。大小さまざまな矛盾が目に付くが、そのあたりは通読したあとで考えよう。とにかくユダが救われないのはかわいそう。各弟子の視点の微妙な違いなんかが研究対象としては面白いところなのだろうか。そのへんもよく知らんが興味出てきた。

七時から、「キュスタース小母さんの昇天」。共産党員やらアナーキストやらを強烈に皮肉る内容。初見の自分には途中までは全く予想もつかない、終盤のブラックユーモア溢れる展開に、場内では何度も爆笑が起きていた。脚本上のラストで劇的な事件が起きるシーンをなぜか一切撮影せず、これ以上の困惑の表情はないだろうというほどの、なんともいえない表情を浮かべた小母さんの静止画の脇に、脚本のト書きを字幕として出して終わり、という投げやりな締め方も笑えた。撮り方はそれなりに注意して観てみたが特に印象には残らず。

終了後渋谷に移動し、軽く飲んで終電前に帰宅。だらだらしてユーロ観た。フランスは酷い内容。不運も重なったが、とにかく不完全燃焼という感じ。ビエラの怪我と監督の無能さが響いた。イタリアは内容の悪さがかえって不気味。ピルロガットゥーゾ抜きの次節を乗り切ればしり上がりに調子をあげてきそう。トニに一発が出たりすると、優勝もありそうだ。オランダは調子良すぎてかえって不安。凡ミスで消えないことを祈りたい。

水曜
朝方まで寝つけず。起きたら昼。四限出た。反復から来る係留の感覚、統合不全、ゆらぎ/ノイズ的要素、というブルースの無意識領域に属する特性が、一方においていかに抑圧され、飼い馴らされて馴致されていったか、また他方でそういった抑圧をかいくぐり、どういった形でそのような所謂ブルース性が六十年代音楽の中で噴出してきたか、といった話。これまでスローペースだった分を取り返そうと高速で授業が進んでいたため、非常に刺戟的だった。ドローンミュージックというやつが、ブルース性が純化した音楽に当たるらしい。単音の反復がひたすら繰り返されるもので、呪術性が極めて高い。あとはブルース的反復を取り込んだ曲としてvelvet underground のSister Rayとかビーフハートのいかれた曲なんかが例にあがっていた。
映像分野においては、リュミエール兄弟の映画などに見られるゴツゴツとしたモノ性、ブツ感、いわゆる無意識的なもの、ゆらぎを極端に抑圧しようとした例として音と映像の完璧なシンクロ、というやつがあって、トムとジェリーだとか初期ミッキーだとか、フレッドアステアのダンス映像なんかがその例となっていた。
エイゼンシュタインが妙なのは虚数体系を映画に導入する事で、表面上は音と映像がシンクロしていなくても、深部でシンクロしてるから平気、という理論を無理矢理ひねり出したところ、らしい。

授業のあとはメディアへ。今日も聖書読み。ヨハネによる福音書、を読んだ。あとは廣瀬純の文章。難解で二、三割しか理解できていないとは思うが相変わらず読んだだけで興奮する文章。ちょうど授業での、視聴覚メディアの分離と統合の話とモロにシンクロしてくる内容だった。無邪気な統合を信じるオーディオビジュアルと、中心に穴をはらんだオーディオ‐ビジュアルとの違い、そこから最終的には、国旗国家法にまで飛ぶという凄まじい跳躍力。国旗‐国家の視点から法を捉えることで、国家斉唱を強制される状況を白痴的に笑いつつ、世界を祝福せよ!とか。まあなんのこっちゃ、って感じだが、格好良いことこの上ない。結局そこにはある種の詐偽が絡んでいるのに、視聴覚を統合してそこの齟齬については思考停止せざるを得ない、というのが人間の限界でそれはそれで笑いつつ、人間の限界を超えて豊饒な世界に目をやったらいいんじゃん、といった単純極まる議論ではないはずなので、修行してから再挑戦したい。

昨日久々にツタヤでCDを借りたので、色々と聴いている。スミス&マイティのベストはなかなか良い。マッシブより好きかも。ニルギリス「BOY]。引用、パクリが当たり前になった時代のポップセンス、オリジナルかコピーかとか、そんなこと気にせずいい曲つくってるかんじ。sakuraは名曲。

帰宅して家で夕食。あさりのワイン蒸しはツマミに良い。自分でも作れるよう覚えたい。二村ヒトシのキスがひたすら続くAVを少し観ようと思ったらつい最後まで観てしまい、その後だらけきったあげくこんな日記なぞ書いてしまい、で三時前。明日提出の英作文ノータッチ。明日昼までに観なきゃいかん映画まだ手付かず。こまった。とりあえず映画観よう。