19日
昼過ぎに起きて夕方までネットなど。これで毎日時間をどれだけ浪費していることか。中毒というほどでもないが、明らかに一日あたりあと一時間は削れる。その時間で英語とかやればいいんじゃねえの、という気もするんだが、いかんせん意思が弱い。

夕方から高田馬場へ。早稲田松竹アラン・レネ三本立て。一貫してトラウマと忘却の問題が、各作品を貫く主要テーマに。一本目、「二十四時間の情事」。トラウマに対する共感は出来ても、トラウマを共有する事は出来ない、ちゅうことでしょうか。国家単位のトラウマの場合にはまた話が変わってくる気もするが。男女がお互いを知っていく過程で虎馬が不可避的に絡んでくるうんぬん。昔読んだキャシー・カルースの本にこの映画の細かい論考が載っていて、読んだときはなるほどなあ、と感心した記憶があるが、今となっては内容はほぼ忘れてしまった。個人的にはいまいちピンとこない映画だった。やはりどうしてもこの時代のフランス映画は肌に合わない、というのも改めて痛感。二本目、「ミュリエル」。頭がぼーっとしていて、まるで画面に集中できなかったせいか、観賞途中から話の展開がよくわからなくなってしまった。筋がきちんと追えていたかすら怪しい。ただ、普通の映画よりは断章の積み重ねっぽいつくり方になっていたのは確かで、もしかするときっちりした筋があんまりなかっただけかも。息子と二人暮らししているおばさんの家に、昔愛し合った男が、親戚と偽って若い彼女を連れて転がり込んでくる。そんな生活の中で、それぞれの人物たちの記憶が断片的に掘り返されていく。忘れる事、というのがキーだったような。忘れたい事は忘れられず、現実からは逃げられない。一方、忘れたくない甘い記憶は徐々に薄れていく。とかなんとか。最後の一本、「夜と霧」。アウシュビッツのドキュメンタリー。思わず画面から目を背けたくなるような場面の連続。中でも、無残な形に変形した死体の山をブルドーザーを使って穴に落としていくところはキツかった。終了後、即北区。夕餉。食事中も、まだ頭の中に「夜と霧」の残像が濃厚に残っていた。
トラウマに対する態度としては、やはり忘れるという事が、最も根本的な癒しにつながるのだと思う。たとえば個人のトラウマなんかは、出来るならば忘れてしまったほうが健康に日々を過ごすためには良いだろう。ただ、集団におけるトラウマに関しては、忘れてしまってはいけない側面が強いので、繰り返し傷を穿り返す態度が必要になるんだろう。
と書いてみたが、自分の感覚としては、個人的なトラウマも、かさぶたをあえて剥がしにいく作業の連続によって、ようやく忘れる事ができるものだ、という気がする。かも。

一日特に人と会う予定がなかったためか、久々に頭がうまく働かない感じの一日だった。