24日
いわゆるひとつのクリスマスイブ。二時ごろ起きる。教習所で技能。近くのヴェローチェで、せめて気分だけでもモテようと、モリエールドン・ジュアン」を読む。初対面でちょっと褒めただけで誰でもイチコロってどういうことだよ、と、ドン・ジュアンの法外なモテぶりに、むしろ憤りを覚える。教習所に戻って学科を一時間受けて帰宅。飯島愛死去のニュースを知る。食後、ネットやら読書を挟みつつ、久々に明石家サンタを観た。電話の大半が30代女性だったのに驚いた。メインの視聴者層はいまやそこなのか、っていう。男子高生はあの時間なにをしていたんだろう。

朝方、斉藤環「解離のポップスキル」を読み終える。わりと読みづらい文章の多い本で、読んでいて疲れた。文章、対談の出典はばらばらだったが、分裂病境界例→解離、というトレンドの移行を、理論的にどう追っていけばよいのか、という問題意識は全ての記事で共有されていた。解離をはじめて理論化した存在として、ジャネが再評価される動きが高まっている、というのが本書に収められたいくつかの文章が書かれた時期の状況だったようだが、その後どうなったのだろう。
個人的に面白いかな、と思うポイントは、Jホラーあたりと絡んだ、幽霊とヒステリーの問題。人間は、見えないものがあると想像したがるものだけど、見えないものなんか本当はない、といった話と絡めつつ、米ホラーとの比較をしてみたい。あとは、欲望と欲動の関係について。いくつかの文章では欲動がおそらく欲求、と表現されていたが、訳語の違いであって同じものをさしているはず。欲動一辺倒で、ベンヤミン的な性格に貫かれた、石川氏が言うところの一本気な快男児、といったイメージは、結局動物化した人間の姿そのもの、ということになるんだろうか。そうだとするとますます、近代を通過してプレモダン、江戸時代に逆戻り、といった単純な図式で考えたくなってしまうが、おそらく近代的な要素を全部スパッと捨てられるかといわれれば、まあそれが可能な人間もいるのかもしれないが、少なくとも自分には間違いなく無理なので、結局は欲望と欲動、二つの異なるリビドー?(言葉の使い方が間違っているかもしれないが)のバランスをどうとって生きるか、という点に全てが帰着するような感じがする。

あと読んでいて思いついた論点としては、視覚文化の勢力が強まることと、心の視覚化が進んでいることの関係性、ミステリにおける密室と、箱庭療法、絵画療法におけるフレーム、その両者間の共通性について、といったところがあるか。