宮台真司 速水由紀子 サイファ覚醒せよ!

大まかに論旨をまとめておきたい。
「社会の底が抜けている」ことを自覚した上で、ある一つの準拠集団や考え方に過剰に没入しないよう、多元的所属を確保することが重要。その上で、「表現から表出へ」「意味から強度へ」、「まったり」笑などの標語に代表されるような、個々人に固有の「聖なるもの」「すごいもの」への感染(ミメシス)を重視する生き方へと移行すべし。

そこでキーワードとなるのが「サイファ」。これは社会のいたるところで露呈しうる所謂ゲーデル的な意味での「世界の未規定性」を、いわば一箇所に寄せ集めて、「世界」の中の特異点(特異な部分)として表象する際の、その特異点のことを指す社会システム理論の用語。

物理学など、文理を統合するような最新の科学哲学の動向を追うことで、人間の存在自体がサイファであるという認識に達し、第4の帰属を得ることが出来る。(注意すべきはこのへんのくだりは元嫁速水の主張で、実際には本書が批判対象としている神秘主義・オカルトと何ら変わりない全体性、ルソー的自然、中沢的縄文、ピュシスへの憧れが見え見え、単なる一つのイデオロギーに過ぎないということ)

科学哲学や現代思想、社会システム理論などに通じることで、「問題を解決する」ことはできなくとも、「問題設定を理解する」(=「サイファ」を逆変換して相対化する)ことはできるようになる。


逆に言えばそこまでしか出来ないという言い方も出来るが、これはそれなりに意味があることのように思える。この理論的再解釈、「サイファ」の逆変換の重要性は、武道を例にして語られたこの部分と対応してくる。

たとえば武道には「型」があります。型を習得するまでに、とてつもない時間がかかります。しかし、型を習得しないことには、武道は強くなれないんです。しかし奇妙なことに、型の中にとどまっている限りは、武道は強くなれないんです。これはどういうことかというと、徹底して型を習得しないと、型の外には出られないという構造があるからなんです。かくして、型の外へと離脱することが、徹底した型の修得の目的になるというわけですね。

つまり「意味から強度へ」と言ったからといって、その標語が生まれるに至った「意味」を十分に自覚した上で「強度」への移行を図るのでなければ、ただのアホ、ということになってしまうわけである。昔引用した「チベット〜」の柄谷による仏教批判(誰でも簡単にできる脱構築!)と言ってることは一緒だろう、おそらく。そもそも「意味から強度へ」という言葉の「意味」を受け取る、という時点でそこには不可避のパラドクスがあるわけだし、徹底して「意味」について思考した後で「意味」からの離脱を図るようにすべし、ってことだ。

全体としては、速水が明らかにアホと言う点と宮台の学生時代の自慢話はひどいが、結構よく出来た本だと思う。おそらく「逃走論」のノリを目指したんだろうが、まあそれなりに成功しているんじゃないだろうか。

「問題設定を理解している」ことによって無自覚に問題系の中にいる人間達を差異化して見下す、というのは学者が陥りがちなパターンで、性格的にそのへんに異常に敏感な北田氏や仲俣氏は気使う一方、上野千鶴子や宮台はそういう面があることを自覚しつつなのか、自分には甘いのか知らんが、偉そうで鼻につく、ってのはある。まあ目くじら立ててもしゃあない話だし、自分の胸に手当ててみろ、って話でもあるので、なんとも言えんが。