引用 樫村氏
幻想における出現――現前に、わずかにずれて繰り出される母親からの現前。この、完全に対等なレベルにある二つの現前は、この間の距離が母親によって、つまり主体にとって統御不能な未知によって適格に調整されることによってのみ、二番目のものが最初のものとは別のものでありながら、それに連なることができ、そのとき、最初のものを<意味する>。そして同時に、最初の現前においてともなっていた欲動――興奮が、この未知からの現前の瞬間に消失する――というのも、もちろん二番目のものは現実であるから――その、もうひとつの増大――消失の回路のリズムと重なることにより、最初の現前と同時に不在をも<意味する>。このとき心的現実と外的現実は、それ自体で差別され、階層化されることはない。このふたつの知覚の連なりは、その背景をなす欲動のリズムに照らされ、それを参照することによってのみ、ある特権的な仕方で折れ重なり、母親による再現は、それ自体現前であると共に、<不在と現前>になる。
この裏側のリズムと母親によるズレの調整との、共振の成功にもとづいて<ディスクールに欲動が記載>される。Fort―Daは母親の存在と不在を単にいいかえたものではない。それは<不在>と<存在>の二つであったものを<不在し存在する>ものにと統一する。こうして欲望という凝集的な作用が始まり、そして閉じる。そのとき、ヘーゲルは勝利するだろう(ただし彼はいきなり最後にやって来るのだ)。そしてまた、このズレの適正な共鳴は、時間の非対称性を学習させ、主――客の<トポロジカルな反転>を抑止することのはじまりとなる。というのも、それは繰り返されねばならない。
母親によって繰り返される、この<良い乳房>と<悪い乳房>の交錯と、そのいわば積分は、一定の状態への期待=特権化、その状態の出現の予知不能性、といった問題群に成長する。それは文字どおり、エントロピー増大法則という、主体の考え方、処理過程であり、その特権的状態の予知不能性=漸進的無秩序化によって、反転不能な時間がはじまる。
この時間の非対称性は、ここで関与している単純な議論の内側では、主――客、私とあなた(たち)の反転不能性に等しい。移行のはじまりにおいてうえつけられた<世界に期待すること>、それは以後しばしばかなえられ、しかし常に未知の中から気まぐれにやってくることによって、私と他者からなる場所を形成する。このとき<私は他者である>ことがないためには、私と他者(たち)のあいだに(差異における)力関係の不均等がなくてはならない。必要な近しさの中にありながら、決して手の内のすべてを見せないこと。<ヴェールごし>のようであること、それは必ずや私より<多くを知っている>であろうこと。
これらを調整するのが、法といわれる(象徴の)体系である。それによって私と彼らの必要な<近しさ>、形式という完全に任意なもののうちのひとつを共有することが可能になる。他方で、その法は<決してその名を直接にいわれない>ことによって、つまり複数の主体に分散し、密度を低減させながら、その<無意識へと構造化>されることによって、私に対する他者の強さ=未知を保証する。