27日
昼すぎに起きる。遅刻して四限途中から。出席したことが重要。ずっと中井本読んでた。喫煙所で会った未来のデリダ研究者に向かって、樫村先生がカントやフッサールを一生研究できるような人には、ある種の鈍さがある、みたいなこと言ってたよ、と思いっきり露悪的に話したりして遊ぶ。つい話し込んでしまい、五限も遅刻。

後期は論文を全員で読んで議論、という形をとっているんだが、どうもなかなか議論として成立しない感じ。難しさを実感。今日の論文は、映画における植民地主義の話。政治的な話はどうでもいいんだが、まあ一応読んだ。ルネサンス期に、絵画に遠近法の視点が導入されたことが一つの分水嶺で、そこから神の視点を離れた、人間の視点が生まれ、人間中心主義や、いわゆる西欧近代的な主体概念がそこから誕生してくる。この視点にはもちろんあるバイアスがかかっているのだが、大体の人間はそれに気づかない。ゆえに、例えば人種差別を告発するタイプの映画が、結局はステレオタイプな人種概念の捉え方から抜け出せないために、結果的に差別構造を再生産してしまう、といった事態が起こる。(批評家が、この黒人の描き方はステレオタイプだ!ダメ、絶対!とアツく主張すること自体がステレオタイプと化す。)撮影、編集等の技法を駆使することで、それと意識させない形で、ある一つの視点に同一化させる形へと、観客を導いていく、という側面を映画が必ず併せ持っている、という点に自覚的な立場から、差別を描いた映画を撮っているものがあって(タイトル忘れたが)その作品は、そういった映画の構造をうまくズラすことで、無自覚に観客が差別構造を再生産してしまうことに対する批評をも、作品に組み込んでいる、とか。
本題とはずれていたが、同一化がらみで、私は、同一化できなければ映画を観れないが、他の人はどうか、と問うた恋多き女性がおり、それに対し、ソクーロフの何も起きない系の映画を研究している男性が、俺はあんまり同一化しなくても観られる、と言っていたのはなかなか面白かった。ソ連系の映画は、ハリウッド古典以来の同一化構造をとっていないのは間違いないし、同一化が作品内の演出でさほど重視されているようにも見えないから、おそらくあーいうのが好きな人は、同一化とは別の何らかの基準があって、そこが満たされれば退屈せず作品を観れるんだろう。
正直言って小生は、同一化構造がある程度ないと、作品を最後まで集中して観られないほうだと思う。パラジャーノフなんかはすごいなあ、とは思うけど、家で観たら停止ボタンを押してしまう気がするし、似たことはタルコフスキーソクーロフにもいえそう。(二人足して一本しか見てないけど)おそらくソ連系は理論化しようとすると虚数体系を償還する必要が出てくる、というような音楽的な論理で動いているんだろう。このへんの作品を楽しむセンスはもう少し磨きたい。暇なうちに。

五限後は、パソコン室で、五限で使う論文を大量にダウンロードし、図書館に返す花田本を軽くまとめて、八時半ぐらいに帰路に。

北区の後は、夕餉。ハッシュド牛。うまし。中井久夫先生の御本を読了させていただく。患者の「心のうぶ毛」に対する温かな視線を常に失うことがなかった、先生の優しさと強さに、掛け値なしに感動した。最後の数ページは読みながら泣きそうになった。また一人転移対象が増えた。

夜中には、チャップリンを観た。わりと笑えた。練習量すごそうだったけど。