中井久夫 最終講義 分裂病私見

精神病からの治癒過程を下山に喩えて、氏独特の、武道や整体の達人に似た、呼吸、間の取り方を生かした治療法の肝をなんとか言語化してわかりやすく伝えてくださっている部分にまず感動しきり。薬物療法の功罪についてきっちり説明しているところも参考になった。漢方薬の可能性についても述べられていた。さすが。

53ページからの、サリヴァンの議論にそった「セルフシステム」についての論考が特に気になった。自己と非自己を区別し、成長しつつ機能し、自己言及的であるシステムとして、ここで説明されている「セルフシステム」とは、中井氏の解説によると、免疫学者多田富雄のいう「スーパーシステム」と同じものを指すそうだ。個人的には、この議論は明らかに、オートポイエーシスにそのままつながるものだと思う。
サリヴァンは、分裂病以外の全ての精神障害はセルフの偏った作動であるが、分裂病はセルフ自体の崩壊である、と考えていたらしい。(54)セルフの解離力が虚脱し、解離されていたものがいっせいに意識の中に奔入してくる。それは解離によって自己に所属しているというラベルを剥ぎ取られたまま意識に上る。それが幻覚である。
解離された「なじみのない」観念が出没し、意識はそれに脈絡をつけ、まとめようとする。そのために意識が高められ、超覚醒状態に入る。するとノイズが意味あるものとして拾われたり、些細な知覚が重大な事態の予兆として受け取られたりする。セルフは最大限の活動を強いられ、次第に消耗する。思考が意識でコントロールできないほど無限に伸び、枝分かれし、それから思考の混乱、「頭の中がさわがしい」状態へ。そして最後に破局が訪れる。と。
どうでもいいが、一年と少し前に一度明らかにこのいわゆる急性期に近い状況に自分がいたのは今考えるととても恐い。まあぎりぎりセーフだったんだろうが、たしかに危なかった、という感じもする。語録なんかを見る限りでは禅の開悟体験もやっぱり、急性期的な危険と隣り合わせのぎりぎりのラインを突いているような気がする。

あとは続けて58ページからの恐怖についての話も、最近ふれているホラー作品との絡みで気になったところ。ここは引用しておく。

 恐怖はいつも存在します。しかし、時とともにおおむねは、恐怖から幻覚・妄想・知覚変容などに比重が傾いてゆくと私は思います。そのほうが少しでも楽だからです。これは生命がそうさせてゆくとしか言えません。恐怖は意識性を極度に高めますが、幻覚・妄想・知覚変容などはそれほどではありません。そしてそれらは変転してやまないものから次第にステロタイプとなり繰り返しとなり、そして睡眠と両立するようになります。「眠れればしめたもの」です。いちおう、ですが―。
 これに対して、恐怖は覚醒度を高めるばかりで、眠りという癒しは訪れません。もし恐怖が持続するならば、恐怖は身体化するか、スリルを求めて恐怖で恐怖を減殺しようとするかです。これらは患者が取る対抗行動によくみてとることができます。
 極度の恐怖は対象を持たない全体的な「恐怖そのもの」体験ですが、幻覚・妄想・近く変容は対象化されえます。意識とは一般に’何かについての意識’ですから、幻覚にせよ妄想にせよ、それらは意識に対象を与えます。その限りでは健康化の方向に向かっています。幻覚や妄想も自然治癒力の発現といってもよいかもしれません。 58-9

後半で軽くふれられている仮説もいくつか面白いものが。小脳が思考の制御にも重要な役割を果たしている可能性についての発言(85)とか、最後の部分とか。

晩年のサリヴァン分裂病も一つのダイナミズム、つまり大まかにいって何かから‘自己‘を守っている防衛機制ではないかと自問自答しています。サリヴァンは答えを見出していませんが、私はひょっとすると、分裂病は特に幼少期あるいは青年期のマインド・コントロールに対する防衛という面があるのではないかと思っています。分裂病患者が催眠術にきわめてかかりにくいのは古くから知られています。 92-3

あとは、分裂病と人類の第一章にもあった、徴候親和者として分裂病質者をとらえる話も目から鱗

最終的に何の仕事をして人生を終えることになるのかはまだわからないが、最後にこういったまとめ方ができるぐらいになりたいという気持ちはある。