チャールズ・チャップリン 街の灯

1931年作品。サイレント。
チャップリンはあんまり好きじゃないんだけど、これはわりと好みの映画だった。何箇所か自然と笑ってしまったところもあったし。

サイレントということで、言葉や意味を用いた笑いとは違って、動きメインで笑いを生み出していく。前者の笑いはモンティパイソンやら松本やらが、あらかたのパターンを網羅してしまったせいか、なかなか最近目新しい形は出てきていない。一方後者の笑いは、映画分野においては、おそらくはトーキーへの移行とともに徐々にすたれていき、その行き着く果てとして、チャップリンバスター・キートンがひたすらすべり続ける、「ライムライト」の終盤にあった印象的な場面があったりするんだろう。適当だけど。ただ、この作品はまだサイレント、ということで、チャップリンの良さが素直に出ている印象。後期の作品にある、とても笑い飛ばせない、焦燥感のようなものはさほど感じなかった。

数人の複雑な動きを組み合わせて面白さを出している場面は、すごいなーどんだけ練習してるんだこれは、という感じで、笑うと同時に感心してしまった。

観ていてふと思ったのだが、最近いくつかyoutubeでコントを見たジャルジャルの新しさというのは、案外このへんのサイレント期の映画のノリに近いところから出てきているような気がする。英語もどきでずっと会話を続けるネタとか、股間から蜘蛛の糸みたいなのをひたすら引っ張り続けるネタとか。

このへんからネタバレ気味。
ジジェク本の予習もかねて観たのだが、そのへんの観点から見ると、まず感情の起伏がやたらと激しい貴族のおっさんの人物造型が気になった。自殺を止める場面で、数度二人で川に落ちる、というアクションを反復したところで、突如打ち解けるところも大事そう。あとすごく気になったのは最後の場面。手の感触から、花屋の娘はチャップリンの正体を見抜く。女は目が見えるようになったことを報告するも、その後チャプリと結ばれてハッピーエンドを迎えたかどうかは、明示されず、チャップリンのなんとも形容しがたい、微妙極まる表情がクローズアップで捉えられるとともに、唐突に映画は終了する。ひとつ前の場面で、来店したリアル金持ちのイケ面貴族を見て、女はこの人がチャップリンかと思った、といった発言をしている。そして、実は貴族でもなんでもなく、みすぼらしい身なりで、背も低く顔もアレなチャップリンを偶然見かけた彼女は、当然のように彼を嘲笑し、最初に出会ったときの状況(チャップリンが憐みの気持ちから彼女に接近し、花をもらう)とは全く正反対に、今度は彼女のほうが、チャップリンに対する憐みの気持ちから花を渡そうとする。それを一度は拒もうとしたチャップリンの手に触れることで、彼女はようやく目の前のブスが自らが盲目のうちに理想化していた男であったことに気づき、うれしいとも哀しいともとれる、複雑な表情を見せる。彼女のそういった心情を痛いほど理解しているチャップリンもまた、言いがたい表情を見せ、そこで映画は終わってしまう。魔法が解けてしまう瞬間、誤解、理想化と密接に関わる、転移・同一化がキャンセルされてしまう瞬間の切なさ。

wikiで調べたところ、大体29年ごろから大半の映画がトーキーに移行しているようで、この作品もサイレントではありながらも、ある程度そういった状況への配慮があった。それがサイレント初となる、全編にわたる効果音を伴うサウンド、だったらしい。
ディズニーの白雪姫を想起させるほどに、音と映像のシンクロ率は高かった。