26日
昼過ぎに起床。ペンネを食し学校へ。

村上隆氏ゲスト講義。ヴィトンとのコラボレーションや、ファレル、蟹江あたりとのからみ(CDのジャケやらPVやら)は、いずれもまず相手サイドの好みを徹底リサーチ→それに合わせる形でアイディアをいくつか用意→相手の意見を汲みそこに修正を加えていくか、もしくは新案を出し、それを元に、クライアントが抱く理想のイメージを具現化、完成させる、という過程を踏んでいるらしい。予想とは全く異なっていたため、さすがに驚いた。我を通そうとする意志は、これらの作品制作に関してはほぼ皆無であるように感じられた。単にそれらの作品への関わり方だけを見ると、ほとんど広告とかのマーケティングの世界。短い時間ではあったが、話を聴いた感じだと、某有名アニメーターを模範として、日本画の技巧を交えつつ磨き上げてきた自分たちの職人的技術に対しては、自負を持っているようだったが、個々の作品に関しては、西欧の画壇、オークションのニーズに合わせたコンセプト、文脈に重きをおいた制作スタイルを取っているようだ。

wikiによれば芸大日本画科ではじめて博士論文を書いたのが村上氏であるそうで、美術史や理論に関する知識はおそらくかなりのものがあるんだろう。そういった正確な知識に基づく分析をバックボーンにして、西欧の金持ちたちの欲望をちょうどよく刺激するような、エキゾチックな要素が、わかりやすい文脈の元で適度にブレンドされた作品を量産していったことで、成功を手に入れた、ということなんだろうか。「リトル・ボーイ」展は、オタク文化をわりと単純に原爆のトラウマに結び付けて位置づけているようで、そのへんの単純化の仕方が絶妙に上手い、というのはあるだろう。それこそマーケティングセンス、とか言われてしまうんだろうけど。そもそも芸術作品の金銭的価値をどう設定するか、というのはそれだけでとんでもなくややこしい問題であるように、何も知らない門外漢からは見えてしまうんだが、ある程度画壇の事情や理論的背景に精通していれば、何が評価されるか、というのは予測可能なのだろうか。そのへんがいまいちわからない。ただ村上氏が、かなり自覚的に、海外で評価されることを目指して作品を制作しているのは明らかである。そこがまあ正直に言ってしまうと個人的に彼に最も違和感を感じてしまう部分でもあるのだが。金融危機でつい先日のオークションでは買い手がつかず、といったニュースも目にしたが、一時は自慰にいそしむ全裸少年のフィギュアが16億円、という次元にまで達していたわけで、彼の戦略は基本的にはこれまでのところ見事にはまっている、ように見える。そういえば、彫刻作品を多く制作している理由は、彫刻のほうが評価されるから、だとも言っていた。そこまで身も蓋もない言い方をする、というのは何か裏があるのかもしれないが、それにしても割り切りすぎではないのか。

話を聞く中で湧いてきた最も大きな疑問は、そもそもそういった形での成功を目指すモチベーションがどこにあるのか、ということ。おそらく一つには、アニメーターとして挫折した経験がある種の外傷になっていて、というのがあるとは思うのだが、それだけでは説明できない何かがあるような感じがした。授業の終盤でマクロスFというアニメを絶賛しつつ、突然、あらゆる芸術家の最終目的は無血革命ですよ、などと力説しはじめたあたりがポイントなのかもしれない。西欧画壇が評価する文脈に徹底的に乗って作り上げた全裸少年のフィギュアが驚異的な値段で落札されることで、画壇の論理を内側から自壊させることができる、といったイメージがあるのかも。ユーモアでやってるとしたらデュシャンの泉みたいなもんか、という気もする。ギャグでやってるのかよくわからんところが気持ち悪いところなんだけど。菊地氏は村上氏の作品の二大テーマは、階級闘争チャンス・オペレーションなのではないか、と語っていたが、これだけだとなんというか60年代のポップアートの人達全般にも当てはまりそうな定義、という気もする。二つを媒介するものとしての金銭、評価、のあり方が昔とは違う、ということなのだろうか。

あとは、蟹江の製作チームや、村上氏のチームにも、検索係、というのがいて、〜のイメージ、といった話題が出るたびに即座にその視覚や音のイメージをネット上から引っ張ってくる、という話にはえらく驚いた。すごい時代だ。お金の話に戻ると、ひょっとすると彼の作品が高値で落札され、評価が高まっていった時期と、近年の市場原理主義的な資本主義のピークがもろに重なっていたかもしれない、というのも、すごく面白い話題だと思う。

展覧会の図録が大学にありそうなので、とりあえずそれを見てからまた考えたい。「芸術起業論」という著書のタイトルも、かなり挑発的な匂いがするので、いずれ読みたい。

授業後は一昨日ぐらいから着手している、ジジェク「信じるということ」をひたすら読んだ。面白すぎる。日本で言う新書のようなスタイルで書かれた本のようで、時事ネタなんかも含めた具体例の出し方が、実に上手い。一見人文系の知とは無縁になっているとしか思えないわれわれの日常生活のあれこれと、哲学や精神分析の知見が、ひょっとすると深いところでリンクしているのかもしれないなあ、という気には少なくともさせられる。

帰って食事した後は怠惰に過ごした。

http://i-morley.com/blog/2008/10/post_15.html
卒論の準備をしつつ、これを聴いた。
今日の授業内容とも関連して、村上隆やchin↑pomの作品をどう捉えたらいいのか、というところから、最終的には現代美術の中で、芸術とはなんぞや?という問題はどう捉えられているのか、とか、芸術と歴史、政治との関わりについてなど、色々と考えさせられた。責任をとらない冷笑的傾向の極大化、あらゆるものがパロディ化される状況、の先に何が来るのか、というあたりが一番気になるテーマか。破滅、消滅にひたすら向かう傾向はカルト化する危険もあるので避けたい、じゃあどうすんの、とか。

昔の芸術家と今の若い人達の比較、という話でダリの例なんかがあがっていた。ダリはびびって戦争を避けて他国に逃げた結果妹を失ってしまい、それが終生外傷として作用した。必死でそのことを忘れ、抑圧するために、自らを天才と自称したりといったパフォーマンスや、作品制作に没頭せざるを得なかった。らしい。なので、本人の意図とは関係なく政治ベタな表現にならざるを得なかった。一方現代日本の若者の場合、ぬくぬくと温室で育ってきたため強い外傷はなく、作品制作の強い動機も調達しづらい。なので、そのことに対する苛立ち、のようなものが主要な制作動機に摩り替わるパターンが多く、それらの表現は結果的になんか面白いから社会のルールから逸脱してみる、で、居直る、といった悪ノリ的な雰囲気に酔うだけのものとなってしまう。また、何の知識も持っていない人達がなんとなく盛り上がるためにチベット問題をテーマにしたクラブイベントを打って、現地人の怒りを買った話などを持ち出して、パーソナリティーの二人は、日本人の無責任ぶり、を批判していた。このへんは単純に割り切れる問題でもない、とは思うが、大学のサークルが作ったそれっぽい自主映画に小生が異常なほどの反感を抱いてしまうのもこのへんと同じ理由かな、という気がする。業や呪いのない人間が作った、何か表現しようとするテーマ性を強く感じる作品、にはどうしても興味が湧かない。