27日
起きたら三時。焦る。ゼミに久々に一瞬だけ顔を出し、卒論の一部を提出。思った以上に怒られた。来週は出ないと。しばらく雑談の後五限に少し出て、その後「三田の家」で食事。「散歩の達人」に載った紹介記事を見たら、まるで小生が料理長を務めているかのような按配になっており笑えた。なぜあの写真が選ばれたのか。謎。わりと付き合いの長い友人に、発言が全て他人事に聞こえると言われ驚く。まあなんでも観察対象として、少し離れた客観的な立ち位置から見たがる、という癖があるのは明らかなので、反論のしようがないのだが。自分はどう思うのか、という部分が見えづらいそうで、それもまああるよなあ、と。以前は特に、集積された知識をどう編集しているか、という部分で傍から見てもあやふやなところがあったんだろう。最近はわりと改善してきたつもりではいたんだが、気をつけよう。責任ある主体として一つの立場を自発的に選択しろ、とかいう話だったらまあ完全にお断りなんだが、もう少しゆるいレベルで、一つの指針のようなものはもう少しわかりやすく打ち出してもいい時期に来ているような気はする。

28日
昼前に起きる。ビデオ返していったん帰宅。すぐ入浴、食事をして教習所へ。久々に路上二回目。わりと危なっかしい感じ。バックミラーを見る余裕がまだ持てない。下手だから。目黒「ちゃぶとん」でとんこつラーメン。内装や容器まで含め、やたらとこだわっている感を前面に押し出している店だった。ラーメンの上にのっている炙り葱以上に香ばしい感じの雰囲気がきつかったが、麺自体はまあわりと美味しかった。ただ今日も味覚が若干麻痺気味だったので、また改めて行けば印象がかわるかも。二時間近くかけて移動し内定者懇親会に参加。接待ゴルフを強要される可能性が示唆されていた気がしなくも無かったが、それ以外は特にどうということも無かった。接待はなるべくしたくないがそうも言ってられないのかもしれない。きつっ。
電車でジジェク読了。難しい。カント、ヘーゲルマルクスあたりを最低でもある程度押さえていないと歯が立たない部分があった。まあ大意をつかめれば御の字だろうからわからんとこは無視無視。
帰りに本屋で夜想ボルヘス特集から、丹生谷氏が参加していた対談部分のみ立ち読み。ちょうどジジェク本の骨子となっていたキリスト教の発想と対置される形で、スピノザ唯識仏教の話題が出ていた。

帰宅後は、
水村美苗日本語が亡びるとき」に関する議論まとめ

http://en.yummy.stripper.jp/?eid=1094337
をいくつか読んだ。

この本自体は読んでいないし読む予定も無いのですが、拾い読みした記事の感想としては、英語の影響力がどんどん強まるのは間違いないと思うし、それに伴って日本語のあり方も変わっていくんでしょうが、それは必ずしも衰退とはいえないんじゃないの、という気がします。そのうち英語と日本語が混じったクレオール語みたいなのが出てくるのかもしれないけどそれならそれでいいだろう、というか長い目で見たらある言語が他言語の影響を受けて変化していくのは当然なわけで、そこで近代日本文学を構成していた日本語を死守せよ、とか言い出したら鎖国と一緒なんじゃないの、と思います。ただ、とはいっても英語の勢いがちと強すぎる感じはまずい気もしますが、英語帝国主義について熱く語るほどの熱意と知識はないのでまあそのへんはよくわからんという感じですね。


という感じ。あとその流れで、小飼氏の町山最新本の評を読んでいて、反知性主義の話題が出ていたのが気になった。キリスト教福音主義と、ピューリタン的な根無し草意識の融合で生まれたのが反知性主義の伝統、という感じなんだろうか。大まかに言うと。福音主義反知性主義につながる、というのはジジェク本のオチからも非常に納得がいく。キリストの身振りを反復することによってアイデンティティが組み変わること、すなわち信の作用こそが重要で、信の内容は問われないわけだから、知性はいらない、という話になってしまうのもしゃあないはずだ。
このへんの話はちょっとずらすと、いわゆるエマソンあたりの自己信頼の概念とかともつながりそう。あとはシャマランとか駿先生とか。神経症の時代に抗する一つの方法としてはありなんではないんか、ということでシャマランに無理やりつなげよう。悪ふざけとしか思えない脚本のずさんさを反知性主義と関係付ける、とか。こじつけすぎかしらね。