11日
昼過ぎまで発表準備。思った以上に時間がかかってしまう。一睡もせず登校。ヴォネガット「猫のゆりかご」について発表する。無神論者の宗教性について論理的に説明する、という無茶な目標を掲げてみたのだが、案の定結論部分で挫折。適当に偉い人の引用をつなげてごまかす感じになってしまった。まあ力不足ということなんだろうが、もうちょいちゃんとしたものにしたかった。

キリスト教の本質的な部分のみを取り出すと、それがどういうわけか、無害な非真実(=フォーマ)を教義とする、「猫のゆりかご」に登場する架空の宗教、ボコノン教に限りなく近づく、というところまではわりと上手く説明できた気がするのだが、その先がどうも上手くいかなかった。ユダヤ教からキリスト教への移行で何が変わったのか、についてもう少し厳密に理解できるよう勉強する必要がありそう。

主に使用した参考文献が依拠しているソースを挙げてみると、エックハルトユング、禅仏教(石川忠司衆生の倫理」)ドイツ観念論全般、ラカンジジェク「信じるということ」)という感じで、これら全てには共通して、若干の胡散臭さがある、という認識が一般に共有されているように思われる。その胡散臭さとは、ものすごく単純に言ってしまえば、神秘主義思想についてまわる怪しさ、と言えるのではないか。否定神学的な体系を受け入れると、どうしても神秘的な要素もセットで受け入れることになりがちで、結局はニューエイジ思想に接近していってしまう。これについてはジジェクが一章目をほとんど丸ごと使って、グノーシス主義ウェルベック作品、ハードコアポルノなど、多彩な例を引き合いに出しつつ批判しており、おそらくはそれが決定的に自分にとっては重要なのだと思われる。否定神学的な体系を一方で受け入れつつも、それに付随して発生してくる、体系内の内容をどう入れ替えても結果は何も変わらないのではないか、という誘惑に関しては、ぎりぎりの所で退け、ある種の「欲動の倫理」のようなものを、最後の砦として残し、神秘主義思想の脱神秘化を行うこと。それこそがボコノン教徒として生きることであるような気がする。


夜は、腸の検査のため上京してきた祖父の見舞いに。約四年ぶりに会ったおじいちゃんはさすがに老けていた。もう83だそうで。呼吸補助のための酸素ボンベから懸命に息を吸いつつ、ぜえぜえ言いながらも冗談を飛ばす様子には心を打つものがあった。必死で搾り出した小声で何を言うかと思えば、アホウ総理って。


12日
早起きして八時から教習。続けて学科二時間。一旦帰って昼食をとり、武蔵境へ。荒川邸ミーティング二回目。二時間半ほど。終了後は学生側の担当者と続けて話し合い。ようやく具体的な方向性が決まってきた感じ。帰って夕食、食休みの後渋谷へ。渋谷LUSHで、「あらかじめ決められた恋人たちへ」のリリースパーティー。まずは豊田道倫先生から。会場がわからず少し遅刻してしまったのが悔やまれたが、以前単独ライブを観に行った際も、同じ理由で遅刻した記憶があったので、まあそういう運命なのかもしれない、と思って諦める。ライブを観たのは久しぶりだったが、なんというか、一切虚飾のない立ち振る舞い、音を前に、身が引き締まる思いだった。これからもずっと、定期的にライブに通っていきたい。前回聴けなかった、「このみ先生」や、ラストの「東京で何してんねん」あたりが特に良かった。続いて森下くるみのDJ。つなぎ方云々はともかく、選曲は結構好み。スターファッカーがかかったのには感動した。その後は、石井モタ子氏のやりたい放題のDJを満喫し、フロア激混みの中メインを後ろの方でゆっくり観て、ゴストラッドで踊って、しばし休んだ後友人のDJを観て終了。帰って寝た。


13日
二時半ごろ起きてすぐに教習へ。寝起きで運転したため、注意力散漫にもほどがある感じで、大分怒られた。終了後、疲れが抜けていなかったため、駅ビルで仮眠をとったり、散歩したり。夕食前に帰宅。疲れからか何も考えられず、明日の準備をして早めに寝た。


14日
昼ごろ起きる。小雨が降る中、新丸子へ。焚火。何人来るかまるで把握していなかったのだが、結局途中参加を含めて8人集まる。最初は、燃やすものがほとんどなく、何度か火が消えそうになってしまったが、三時前になんとか雨がやみ、晴れてきたこともあって、最初はなかなかうまく火がつかなかった、あたりに落ちていた、かなり濡れて湿気を含んでいた小枝などにも火がまわるようになり、なんとか焚火の体を成すように。二時間ほど焼いた芋を掘り起こして食べてみると、非常に美味しい感じに仕上がっていて、一同安心。まあはじめてやったにしてはうまくいったかなと思う。途中からなんとか天気に恵まれてよかった。もう一度火を起こして、マシュマロを焼いたり。最終的には出たゴミ、余ったものを全部燃やして、カスを捨ててフィニッシュ。近くの王将に移動し、暴食し、安さに驚きつつ帰宅。来宅した業の深い友人に業の深い人が書いた本や業の深い人が撮った映画などを貸した。夜中はだらだらしてしまい反省。ピカソ展が気づいたら終わっていた。行く気だっただけに少し後悔。


15日
昼過ぎに起きて、学校へ。四、五限と半分ずつぐらい出る。五限のゼミでは蓮見先生の、ハワード・ホークスに関する文章を輪読。細部から誰も気づかないような斬新な視点を見出す発想力に関しては、自分のような今の大学生にとっても驚きをもたらすものがあるのは確かなんだけど、あえて必要以上に権威的に振舞うような、挑発的な書き方に対して、なにくそ、と反発したり、馬鹿にされないよう、もっと映画を観なければ、と駆り立てられる、という感覚は、おそらく、リアルタイムで、青春時代に蓮見先生の映画評をむさぼるように読んだ世代の人達とは違って、今の学生には正直いって、ほとんど存在しないものだと思われる。ゼミの先生にしても、日々授業を担当する中で、教師が転移を誘発させる事自体がほとんど不可能になってきている、という状況をひしひしと感じているそうで、生徒に対して少しでも権威的に振舞うと、誰も授業に来なくなってしまうから、そこはある程度妥協して、共感ベースで接するようにしているんだとか。そんな話を聴きつつ、これから教育の現場で働く人は大変だろうなあ、と他人事のように考えたり。その点で見ても「鈴木先生」の異様さは際立っているような気がする。喫煙所で偶然会った友人と話したり、図書館に寄ったり、で時間を使い九時ごろ帰宅。ジュパンチッチを少し読む。そろそろカントを読まねばならんようだが、卒論には間に合うのだろうか。まあ無理だろう。サッカーのハイライトをいくつか見る。