ピンナップ・エイジ 伊藤俊治

「所有」という概念はすごく重要なんじゃなかろうか。ピンナップは私的空間内で、匿名のモデルと自分との間に擬似的な「所有」感覚を発生させるメディアとしてとても優れていたように思える。それが60年代性革命に伴うエロ雑誌の過激化、ビデオの誕生などメディアの変化に煽られ、徐々に影響力を失っていく。ここで、岸田秀の有名なテーゼ、「人間とは本能の壊れた動物である」を思い出そう。擬似的な「所有」感覚という幻想を喚起できないエロ動画の氾濫は、社会のインポテンツ化を帰結するように思えてならない。

さて、そんな現代にあって氾濫するエロ情報からなんとかして幻想を喚起するにはどうすればよいのか。その一つの処方箋は、みうらじゅんのエロスクラップにある気がする。氾濫する情報に自らの手で編集を加えることでしか、もはや「所有」の感覚を再生することは出来ないのではないか。

ここの私的所有に関する文章も参考になる。
http://www.k-hosaka.com/kashimura/shiteki.html

上の樫村氏の文章は色々な問題に繋がりうると思う。

個人的には、モノとして見られたい欲望、ってのがマゾヒズムの本質なんではないか、という気がしている。これはもう少しちゃんと考えたいトピック。

perfumeが凄いのはモノ性をある面では徹底しながらも、そこを突き抜けて、彼女達三人から、不思議ともはやあるはずのない固有性がしっかり立ち上がってくるところだろう。だから彼女達がライブで振り付けを失敗したりする瞬間が一番貴重なものになってくるわけだ。