仲正昌樹 「不自由」論 −「何でも自己決定」の限界

アーレントデリダロールズあたりから始まり、最近のリバタリアニズムコミュニタリアニズムネグリ=ハートのマルチチュード論に至るまでの政治・法哲学の入門書的な本。アメリカのフェミ系法哲学者コーネルの提案している、「イマジナリーな領域に対する権利」というメタ権利概念に関する話はなかなかおもしろかった。

「普遍的理性」に根ざした「普遍的正義」などという胡散臭いものには、さすがにあまりにも現実性がないので、実現可能な範囲での正義について、あくまでも限定された条件の下で考えていきましょう、という感じだろうか。あとがきで筆者も記しているように、観念論に偏りすぎることもなく、かといって行動ありきでもない、バランスのとれた態度を取っていくことが肝要なんだろう。言葉で言うと簡単そうでも、実際うまくバランスを保つのはかなり難しい気もするが。

あとはデリダによるルソー主義の脱構築についてのくだりで、ルソー的な「自然人」観を「エクリチュールによるバロール支配の最たる例」としているところに、非常にハッとさせられた。西欧近代のエクリチュールに汚染されている知識人どもは、大体カントが言うところの「モノ自体」への憧れから、どう考えても純粋なパロールではないものを扱っているにも関わらず、調子乗ってバロールに直接触れたつもりになってやがる、みたいな。中沢とかまんまそれじゃん、っていう。

教育論のくだりでわざわざ名指しで宮台を批判してるあたりは、モテない人間の嫉妬と高二病気質が感じられて、微笑ましかった。彼や北田氏のように謙虚な人の方が読むほうとしては好感もてるよね、やはり。上から物言ってる感じの偉そうな学者より。