村上龍 限りなく透明に近いブルー

後半、リュウとモコのウッドストックを巡る会話。

「そうね、リュウウッドストックの映画だけどさ、あなた観た?」
「ああ、なぜだい?」
「今また観たくない?今観ると白けるかしらどうかしらね、どう思う?」
「白けるよきっと。でもジミヘンは凄いだろうなあ、凄かったからなあ」
「やっぱり白けるわよねえ、でもやっぱり感動するかもしれないわよ、でもまた後で白けるんだろうなあ、ちょっと見てみたいなあ」

ここで言われてることが、まさに、「今」この小説を読むということの微妙さでもあるんじゃないだろうか。

もちろん「今」読む価値が全くない作品ではないだろう。しかし、作品全体から漂う六十年代臭が「今」の視点から見るときつい。さすがに。当時はセンセーショナルな表現だとか言われて社会現象にまでなったらしいが、今こういった表現が出てきても、そういった意味で話題になることはありえないだろう。

言語体うんぬんの話じゃないが、村上龍の小説が、特に同時代性が強いとしばしば言われることに、今更ながら納得。さすが、「時代と寝る男」とか言われるだけのことはある。

解説は彼の文体と近代的主体からの離脱を関連づけていたが、あまり説得力があるとは思えなかった。おそらく、近代的主体に対する素朴な信頼に裏付けられたような文学作品を、自分がほとんど読んでいないからそう感じるんだろうが。

三十年前の「新しい」文学が今の視点から見ても新鮮に見える、ってのもあり得ない話だ、よく考えたら。

どうでもいいけど、主人公の名前がリュウってのは、いくらなんでもないだろう。
ヒデと仲いいぐらいだからしょうがないのかな。