アピチャッポン・ウィーラーセタクン 世紀の光 Syndrome and Century

前後半の二部構成。どちらも病院における人々の日常を切り取っている。

前半は農村部の病院が舞台。ほとんどのシーンは引きのカメラからの固定ショット。そのせいか野外のシーンでは風景が印象に残っている。大きなストーリー展開は皆無で、世間話の断片のようなものだけが切り取られて提示される。女性医師を追いかける男性のくだりは比較的展開のある部分だったが、公園の椅子で男を前に医師が、以前想いを寄せていた男性について語るところで回想シーンに飛び、そのシーンが終わるとなぜかもう公園のシーンには戻ることなく、別のシーンに進んでしまう。この映画には他にもこのような進み方をするところがあった。何らかの暗示とか伏線かと思いきや、全くそのシーンがそれ以降参照されることはない、っていう。
お坊さんと医師の掛け合いで主客が逆転してしまうところとか、音楽好きの坊さんとこっそり歌手やってる歯医者のからみのくだりなど、ユーモラスなシーンも多かった。現代のお坊さんに関して、彼等も人並みに世俗的な部分を持っているということを示しつつも、時折輪廻思想に関する会話が交わされたりもしていたのが、興味深かった。

後半は都市部の病院が舞台。前半に出ていた俳優達が役柄を変えて再登場する。後半の序盤が、前半の序盤のシーンをカメラ位置を逆にして再現する形でしばらく進むということから考えてもこの演出は輪廻思想との関係で読み解くこともできそうだ。が、別に特に意味はないかもしれない。それ以降は、後半も前半同様何が起こるわけでもなく映画が進んでいく。全くストーリーが成立していない時点で、解釈をほどこすことはほとんど不可能に近い。可能なのは断片的に提示された個々の話について、その後の展開なり、劇中では説明されていない周囲の状況なりを、想像することだけである。この方向性は新しいと思う。構成など、比較的カッチリとした部分があることで、一切の物語化を拒みつつも映画としてはきちんと成立していた。緻密さと適当さのバランスが絶妙だと思った。
カメラは前半に比べると近くなり、手持ちカメラなども使われていたが、それは演出意図だったのか、単に病院の建築上の問題だったのか、そのへんは何ともいえない感じ。

質疑でも話題に上っていたが、病室で酒を飲むシーンで、手前に座っていた女医役のおばちゃんが、突然カメラ目線になるシーンがあった。監督によれば、それは指示、演習によるものではなく、たまたま撮ってたらおばちゃんがカメラの方向いちゃって、でもそれがおもしろかったからオッケー出しちゃった、ということらしい。このユルさ。たまらん。ドキュメンタリー的手法、と一口に言っても様々な方向性があるが、このシーンに現れているようなスタイルは今後もっと注目されていくのではないだろうか。
話によるとそもそも彼女を起用したのも昔の知り合いに似てて顔がおもしろいと思ったからだ、とか言ってた。すごい。

途中から、こんなんでどうやってオチつけるんだろうと気になって観ていたが、見事にやられた。公園で日本のバンドのテクノポップ調の曲に合わせて50人ぐらいがエアロビ踊ってるシーンがしばらく流れたところで、なんのオチもなく唐突に映画は終わってしまう。思わずエンドクレジットが出た瞬間笑ってしまった。なんじゃそりゃ、というのが第一印象。ただ考えれば考えるほど、すさまじい映画だったんじゃないか、という気がしてくるから不思議だ。とにかく近年ここまで観て違和感を感じた映画はない。監督自身の両親との思い出をテーマに撮った作品らしいのだが、そう言われた所で、腑に落ちない感じは残るし。