時は来た

橋本真也風に言えば、時が来た、という感じ。ようやくここ数日ぐちゃぐちゃ考えていたことがまとまりつつある。
ニーチェ永劫回帰の肯定。全てに「然り」と言える境地にいかに達するか。
まず何よりも確認しておかねばならないのは、世界を成り立たせている根本法則は偶然性であり不条理でありカオスであって、因果律や法といった論理はあくまでも二次的なものとして扱われなければならないということ。所謂ゲーデル的状況が全ての基本にあると言う事実、これに気づくところがスタート。

ここからが重要。自らの何らかの経験を機に、不条理を身を持って体感することで、ゲーデル的状況の全面化について、観念的な理解ではなく、身体性を伴った理解へと達することが可能となる。この理解に達したならば、そこから決して目を逸らすことなく、カオス・不条理と正面きって対峙し続けなければならない。し続ける、というところが非常に重要で、この過程はようするに仏教における修行の過程とパラレルに考えることができる。ツァラトゥストラで言えば、第二段階「ラクダ」に相当する部分。ここは当然かなりの辛さを伴う部分でもあり、安心を買うことでいくらでも目を背けることは可能である。下を見て高二病的な満足を得るとか、道化を演じて生活するとか、処方箋はいくらでもあるだろう。ただ、そこで目を背けてしまってはつまらないわけである。つらさは軽減されるだろうが、その分感受性も磨耗してしまうので、感じられる喜びも半減するだろう。それをどう捉えるか、というところが分水嶺だろう。それでもいいと妥協するようになってしまえば、それはイコール丸くなって老け込んで魚の目になることを許容して生きていくということであり、若者がそんなことを肯定していては話にならんと思う。

ということで不条理を凝視し続けることを迷わず選択しようと思う。とりあえず今は。
その過程に身をおき続けることからのみ、完全に自分独自のものである特異点に気づく、ブレイクスルーの瞬間、というものがいずれ訪れる可能性が生まれてくるのだと思う。禅僧の逸話で、こんな話がある。弟子が師匠に「悟りとはなんですか」と聞いたところ、師匠は何も言わず、自分の履物を脱いで頭に乗せた。弟子はそれを見て悟った、というようなものである。

ここからわかるのは、世界の全肯定としての哄笑へと繋がりうるような特異点は、全く普遍的なものではなく、完全にそれぞれの個々人に独特のものであるということである。この逸話における弟子は、履物を頭に乗せることで悟れるはずがない、ということ、これこそが最も重要である。全くの無根拠でありながらもそれに対して聖的感染(ミメーシス)に至ることができるような何かある特異点に達するためには、座禅なりなんなり、常にカオスと対峙し続けることが必要になるわけだ。

そこで徹底的に絶望して、徹底的に自己否定をとことんまでしきることで、逆に全的な自己肯定に向かって可能性がひらかれてくるのだと思う。まずは自分をもっと嫌いになることで少しでも自己肯定の感覚を手に入れられるように持って行きたいもんだ。明らかに自分より馬鹿な人間を嗤うことで安心感、自尊心を担保するのではなく、自分をこそ徹底的に嗤いつくすこと。これしかないんじゃなかろうか。そう考えると、以前中原やウディがなぜ自分を嗤うのか、という点に持っていた引っかかりも解ける。自分を徹底して笑うことができる強さがある、ってことに尽きる。彼らは。まあ創作において自己を投影していると思われる人物を嗤う、というのはやや歪みというか捻りが入っているので、単純に自分を嗤っているものとして扱うのは、やや違うかもしれないが。

最終的には、一切の「重さ」と無縁となり、哄笑と共に軽やかに踊り、唄う境地に達することが出来れば文句無しという感じだろう。一休さんの詩集にそろそろ手を出したほうが良い時期に来ているのかもしれない。一つの偶像=アイドルの理念系としては、嘉陽愛子cosmic cosmetics ってことになる。