ハードミニマルの笑い
画太郎 ヤスジ 中原昌也 パルプ あたりに共通して見られる、物語(ストーリー)をあまり重視しない方向性からか、もしくは、いちいち新しい話を考えるのが面倒だからだろうか、ひたすら同じ話が繰り返し出てくるという特徴は、所謂反復の笑いを生んでいるように思われる。よく見られるようなせいぜい数回に留まる天丼とは異なり、彼等は作品が変わっても常に同じモノを反復的に登場させる。そこに面白みがあり、凄味がある。
コマも半分ぐらいが使い回し、話が思いつかないと常に似た展開に陥っていく、という画太郎の作風なんかは中でも凄い。ナンセンスギャグはそれを享受する側の解釈フレームを無化するところに面白みがあるのだが、彼はその際の瞬発力というか、一瞬の爆発力が図抜けているように思う。比較できるとしたらキャシイ塚本ぐらいだろうか。あとはスピード感。これはあとがきで草森先生が言及していたことだが、ナンセンス系のギャグでスピード感が伴っているのは珍しい。ヤスジの「村」の世界なんかは、ミニマルはミニマルでもエレクトロニカアンビエント寄りで、画太郎ハードミニマル、って感じか。

ブコウスキーの遺作長編パルプもスピード感のある作品だった。普段決して読むスピードが速いほうではない自分がかなり速く読み終わったことからもそれは明らかだ。
パルプの場合そのスピード感にはいい面も悪い面もあったような気がする。
本作以外の長編はどれも自伝的要素が強く、その他多くは短編小説を書いていることを考え合わせると、おそらく彼も「物語」を考えるのが得意ではないのだろう。というか興味がないのだろう、そんなことには。すると必然的に展開は適当なものとならざるを得ない。まず一番展開をでっち上げやすい探偵小説という形式を用いる。しかし緻密な構成なぞ創り上げる気は毛頭なく、なんとなく事件が解決していく形で、どんどん話が展開していく。読んでいて、探偵ものにしちゃえばなんとかなるだろう、という適当さがビンビンン伝わってきた辺り、石井輝男先生の絶妙な適当さを思い起こさせるものがあった。
あと、読み飛ばされることをかなり意識しているのではないか、と思われる書き方なんかは、中原昌也との近さを感じた。他作品と比べても、糞みたいな会話文の占める量がやたら多かったような印象がある。時代の流れにあわせてブコウスキーが自身の作風になんらかの変化を与えたのだとしたら、なんとなく悲しいが、柴田元幸や源一郎がやたらと誉める理由も色んな意味で納得できた。まあ、「現代」文学なんてもんが存在し得るのかは知らんが、あるとしたらこういう形なんじゃないか、という一つのモデル足りえている感じはある。確かに。