ロッキー

DVDで鑑賞。
アメリカンドリームをつかむダメ男、というベタな図式にはまってはいるんだが、所々そういったベタさを相対化するような視点を感じさせる場面もあり、単なるスタローンの俺様映画ではないのかもしれないな、と思って観ていたが、特典映像のスタローン自身による三十分にも渡る解説を観て、やっぱりこの人は天然なんだな、と思い直した。
完全な天然とは違うんだろうが、多少相対化の視点を持っていつつも、結局俺様世界の強さがそれを無力化してしまう感じというか。25年前の映画の細部について興奮気味にまくし立てるスタローンを観て、呆れると同時に感心してしまった。

深沢七郎正宗白鳥の死を契機に書き上げた短編「白鳥の死」の中に、懐疑を捨てて、自らの生きる道をまっすぐに生きる人間に対する彼の思いが、様々な例を引き合いに出しつつ書かれているところがある。植木等が、泣く場面で表情は笑ったまま、身振りだけ泣く格好をしているのを発見したこと。たまたま汽車で横に乗り合わせた、友人の紹介で職を転々とする男が、自身の境遇、未来に何の疑いも持っていないのを知った時のこと。障害を持った父親を連れ立って大道芸で口を糊している娘を見たときのこと。
彼等は完全に懐疑を捨て、ある一つの生き方を信じ切ることが出来ている。
最終的に懐疑を捨て去り、神を信ずるに至った正宗白鳥や、聖書におけるイエスの弟子達も含め、彼等、自らの道をまっすぐに生きることが出来ている人は、いかにしてそういった生き方に至ったのか。深沢七郎はこんな風に書いている。

長い間キリスト教徒は肉体の支配者と心の指導者ー嘘を言ったり、騙したりして稼がなければならないことと、5切れのパンを5千人でわけて食べてもまだ12籠も余ってしまうという聖書の生活ーの2つの命令に従わなければ生きていくことが出来なかったのでそんな矛盾に不感症になってしまったのである。 182

(汽車で会った男を評して)
2つの道を生きていくのに不感症になっているこの男は、やはり、懐疑などないのである。
 184

矛盾を承知の上でそれでもなお信じようとすること。二重性の徹底の先にこそ、懐疑を捨て去ることが出来る可能性が立ち現れてくる。ここで、無害な非真実「フォーマ」を教義とする、ヴォネガットの「ボコノン教」を思い出してみてもいいだろう。信じる対象が何であるかが問題なのではない。信じることが出来るか、こそが問題なのだ。

そう考えると、「信じる者は救われる」という陳腐極まりないものとしか思えない言葉に対する感覚も変わってくるように思う。もちろん、キリスト教においては言うまでもなく「信じる者」達が信じるのは神、イエス・キリストである。しかし、キリスト教徒ではない我々は、この言葉をこう読み替えることが出来るだろう。「例えそれがなんであれ、なにかを心から信じることが出来る者は、救われる」と。

話が随分脱線したが、要するにスタローンの真っ直ぐさには感心しきり、ということだ。
ロッキーファイナルを早く観に行かなくてはいかん。

追記
カトリックについては最近色々と考えている。ベケット研究の大家で「ノンセンス大全」等の著書で有名な高橋康成氏が、晩年カトリックに入信した、というエピソードを、学校の図書館で流し読みした「遊」に載っていたインタビュー記事で見つけたのと、逆説と諧謔を武器とする作家チェスタトンカトリック、というのを知ったことが大きい。
まずは聖書を通読せんことにはどうにもならんが、場合によっては入信してもいいかな、という気もしている。