鶴瓶のらくだ

歌舞伎座まで、「鶴瓶のらくだ」を観に行ってきた。マクラを兼ねたフリートークに始まり、私落語「青木先生」「オールウェイズお母ちゃんの笑顔」と来て、最後は師匠松鶴の十八番「らくだ」で締める、休憩なし二時間半強の圧巻の公演。

ここからはネタバレ。


「青木先生」を除く二演目とオープニングトーク、舞台演出、そのいずれにも共通して見られたテーマが「死」だった。オープニングトークにおける、師松鶴の紹介も兼ねた、彼の死ぬ間際のエピソード。「オールウェイズ〜」における、病室での母親とのエピソード。さらに自らの葬式、という設定での舞台演出が加わり、典型的ダメ人間の死を巡る噺である、「らくだ」への布石が作られる。

これらの布石を踏まえてみると、「らくだ」における、屑屋と熊の役割は、鶴瓶が今回「らくご」の公演を打つことで、師匠松鶴に対して果たそうとした役割と、ある程度まで重なってくるものとも感じられた。また一方で、棺桶の代わりに漬物の壺に入れられるという、らくだの設定を踏襲した形で鶴瓶が葬られる舞台演出は、鶴瓶が屑屋や熊の立場だけではなく、らくだの側とも重なってくる面があることを伝えているように思えた。

師弟関係ってのは、親子ともちょっと違うし、非常に面白いもんだな、と思う。師匠の十八番のネタをかけるという今回の公演にしても、単にエディプス的な意味で師匠を越えようとしている、という感じはしなくて、むしろ師匠の得意とするネタを、師匠のことを知らない人達に見せて、笑い、感動してもらうことで、師匠をその場に生き返らせようとする、同じフロイトの喩えで言えば、喪の要素を強く感じた。エディプス的な構図に吸収されない、ということがアンチオイディプスなんだとしたらドゥルーズはそろそろ読みたい。最近興味のある丹生谷貴志氏もドゥルーズ関連の本いくつも書いてるし。まず軽めの入門書読んでから丹生谷本に移行しようかしら。とりあえず。

とにかく、死をも笑い飛ばしてしまう、ということこそが、人間の素晴らしさなんだと思う。いずれにしろ最終的には死ぬ、という地点からスタートしても、死を完全に笑い飛ばすことが出来れば、最終的には、出来る限り周囲に優しく振舞って、死ぬまでただ生きよう、という覚悟が決まる。

しかし、酔ってきた屑屋の「情けは人の為ならず」についてのくだりと、らくだに対して冷たい近隣住民に怒った酔いどれ屑屋が、「人に迷惑をかけながらじゃないと生きていけない奴もいるんだ」、と大声を張り上げるところは泣けたなあ。