愛は負けても親切は勝つ

今日、夜風呂上りにテレビをつけたら、たまたま、「爆笑問題のニッポンの教養」をやっていて、斉藤環が太田とヴォネガットについて語り合っていた。

http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/saito/bungaku0202.html
この文章にも書かれているが、斉藤氏はヴォネガットの「愛は負けても親切は勝つ」という言葉を、治療の際によく使うそうだ。番組でも、「愛というのはやっかいな面があるので、治療には使いにくいんですよ。」というようなことを言っていた。これは、知ったかぶりであるという前提のもとで言えば、おそらく治療時に患者との間で発生する転移関係が、愛というレベルにまで達すると、様々な問題が出てくる、ということを言っているんだと思う。

僕が、高校一年生の頃、生まれて初めて自主的に最後まで読み通すことができた小説が、ヴォネガットの「スローターハウス5」だった。大げさな誇張でもなんでもなく、それから六年がたった今でも、好きな小説を一冊選べ、と言われれば、僕は迷わずこの小説を選ぶ。なぜ僕はそれほどまでにこの小説に惹かれたのか。それはおそらく、この本が、当時実存的な問題に直面して、半ば本気で独我論を信じていたような、ドン詰まりの状態にあった自分に対する、ある種の救いとなったからだと思う。ニヒリズムの極北から生まれる、アイロニカルでありながらも温かい彼のユーモアに憧れた僕は、しかし今思えば、その当時、とんでもない誤読をしていたような気がする。「そういうものだ。」の響きだけに感化された僕は、それ以降加速度的にシニカルな物の見方をするようになっていった。数年間にわたって、周囲の人間ほぼ全員を馬鹿にして嗤い、そこから得たかりそめの自尊心にしがみついて生きてきた。他人の無知を嘲るような嗤いが、ヴォネガットの暖かなユーモアとは全く正反対のものであるということにも気づかずに。僕が自分の間違いにようやく気づくことができたのは、「愛は負けても親切は勝つ」という言葉の意味が心の底から理解できるようになった時だった。

ヴォネガットの作品をいくつも読む中で、常に一つだけ、どうも納得できず、引っかかる部分があった。それが、「愛は負けても親切は勝つ」という言葉だった。この言葉は、彼の作品全てを貫く大きなテーマの一つであることを、著者自身が明言しているような、重要な言葉であり、事実数多くの作中に登場する。僕は彼の作品がどれも大好きだったにも拘らず、この言葉が出てくるたびに、そこに関しては正直言ってよくわからないな、という印象を抱いていた。番組中の太田のギャグじゃないが、それこそ「愛は勝つ」んじゃないの、などと思っていたのだ。その理由は簡単で、要はそれまでの僕は他人を真剣に好きになった事がなかったのだ。男子校だったし。それから数年が経ち、愛が負ける事がある、ということを身をもって体験することとなってはじめて、ヴォネガットの言葉がまず半分理解できるようになったのである。

もう半分についても、腹の底から理解できるようになるまでには、かなりの時間がかかった。落語やファレリー兄弟の映画を通じて、少しずつ、悪者をつくらない、優しいユーモアのあり方がなんとなくではあるがつかめてきて、笑福亭鶴瓶のテレビ番組を熱心に見るうちに、だんだんと「親切は勝つ」という言葉を心から信じることが出来るようになっていった。こういった経過があったので、一昨日の「鶴瓶のらくだ」で、酔った屑屋が「情けは人の為ならず」という慣用句についてくだを巻くくだりでは、思わず涙が出てしまったのだった。