斉藤環 文脈病 −ラカン、ベイトソン、マトゥラーナ―

最近の自分に生じていた偏りを正すのには非常に良い本だった。
本書のOS−PSの二項対立図式はすごく使えるなあと思う。
最近の自分に起きた変化はおそらく、

パズルのラストピース的人物との対話によるPSの完成―>ある種の全能感の獲得、誇大妄想の激化、狂躁的状態―>バランスをとろうとする意識が働き、OSへの注意が増大―>逆方向への過剰適応として、OSへの全的没入―>二度目の軽カルト化―>落ち着いてPS,OS両者に必要十分の注意が向けられ、APシステムが破綻なく機能する状態へ(時折躁的発作に見舞われるも基本的にはアタラクシア)<=いまここ
って感じか。

まあ常にバランスには気を配ってないとズレは生じてくるだろうから気をつけないと。来年一年は体育会に入ることも真剣に検討すべきかも。
それにしても13章のラカン(PS)、ベイトソン(OS)、マトゥラーナ(AP)の結び付け方はすごいなあ、と思う。見事。PS−OSのカップリングを示した図で、図柄がカエルの顔に似ているのは偶然ではない、みたいなマッドな発言してるのも仕方ない。ここは独創的すぎるもの。OS,PS双方から廃棄物として排出される「文字」の媒介により、両者がカップリングされる、ってのも納得いく。ヴァレラが竜樹に接近するのはおそらくこの辺のカップリングの特徴、というかAPシステムの四つの特徴、ってやつがもろに中論とかぶってるからだろう。
オートポイエーシスについてはなぜか三年ほど前に何冊か読んだが、今一度読み返してみる価値はありそうだ。閉鎖系の論理ではないからカルト化はしようがない、というのがデカい。
ナルシスティックに自閉せず、臨床の領域でよい意味での曖昧さを保ちつつ分裂病の分析を続けた中井久夫氏の著作もそろそろ読んでみたい。

禅については否定神学的、ナルシスティックに閉じている、ということで純粋ラカニアン同様批判対象となっていた。個人的には禅にはPSのみならずOSも多分に関わっているように感じられるのだが、そのへんはごちゃごちゃ言ってもしょうがない部分だろう。とりあえず、安易に「悟り」という言葉を使うのはあらぬ誤解を招きそうなので、冗談としても使わないようにしようと思う。

OS−PS
学習―症状
神経系―シニフィアン
この対立図式は非常に雑に考えると、
分裂病神経症
外部―内部
幻覚―知覚
仮象―現象
主観―客観
躁―鬱
女性性−男性性

といった二項対立図式に書き換え可能で、これらの対立を生み出す起源であり、同時に対立から生み出されたものでもある(言い方へたくそだ)文字を媒介に二重化された主体システム(AP)が成立している、って感じだろうか。
SPの全面化は否定神学的であっても、神のような存在を想定せざるを得ず、結局はナルシスティックな自閉を帰結する。そこを突き放して見ているのがエチカなんではないか。そうだとすると、SPの力というのを正しく認識しつつも、突き放して見る事でスピノザ的平穏が得られるのではないか。