町田康 パンク侍、斬られて候

とにかくすごい小説だ。すごいとしかいえないすごさがあるというのがすごい。みたいな感想を前町田康の初期詩集に対して書いた気がする。うる覚えだが。この本を読んではじめてわかった気がするが、おそらく彼の本はどれも、そういう二極化のヤバさみたいなのを徹底して批判してる本だったのだ。読んで楽しんでわかった気になってたが、大間違いだった。とにかく勉強になる本だった。小説を読んで軽躁状態になったのは、カフカ「城」以来で、しかも明らかにその時以上の興奮があったため、ついつい読後にすげえ、とか、やべえ、と言った言葉が脳内にリフレインしまくってしまったが、それが結構アブねえよ、ってことなんだろう。それ言っちゃうと思考停止、って感じだし、どんなに気をつけててもカルトと紙一重になっちゃうかもよ、ってことだろうから、矛盾した言い方にはなるが、気をつけんと。以下は完全にネタバレ。


手法的な部分でいうと、全部読んだ訳でもないので適当にだが書くと、従来の彼の小説は中短編中心で、いずれも本作に出てくるようなどこかずれた主人公を一人おいて私小説風に一人称で物語が進んでいくものが多かったような気がする。そこで起きる悲喜劇をある程度突き放して書いて戯画化する、みたいな。それに対して「実録外道の条件」のようなエッセイだと、そういう私小説的な設定要素は後退して、ずれた人物達のズレかたに焦点が当たっていた気がする。(確か「実録〜」は読後つまんねえなーと思った記憶がある。実話ベースってのもあったのだろう、お話性がなかったからなんでは、と思う。)そして本作はその両者が合体した感じがした。三人称で話が進むから、従来の中短編以上に、突き放した感じが出ていて、かつSF的な物語性も兼ね備えているという。でしかもそれが一応時代小説の形式をとっている、っていうあたり。というかまあパロディなんだけど。ハッチオンが言ってたようにパロディは形式を嘲りつつ結局強化することに繋がる、というところに眼目があるわけで、要するにバーセルミ雪白姫や、深沢七郎楢山節考」にもつながる、愛するプレモダン物語のパロディ化による再生、というやつで、まあ自分が一番大好きな種類の小説ですわな。これは。ものの見事にあらゆる思想、自己を含めた全存在が相対化されているのだけども、根源の部分に時代劇への無条件の愛があるわけで、そこが素晴らしいのですな。その愛は政治家やおっさんが司馬遼太郎に感じる類のそれとは違う、ってことは解説で源一郎先生がおっしゃっている通り。

いったん話をそらすと、彼はやっぱプレへの視線が足りなかったんだと思う。それを自覚してもいるだろう。なんだかんだで学生運動の時期と青春時代がドかぶりだったことの影響は計り知れなかったんだろう。事実明らかに当時の自分へのアンビバレンスな感情が出ている「さようならギャング達」と「ジョンレノン対火星人」が作品としては一番魅力的な気がするし。エロ路線への転向ってのは、多分新しい「敵」を見つけた、ってことだったんだろう。しかしそもそも敵を探すという態度にこそ問題があったのだ、ということをやや下の世代である町田の作品に突きつけられて、高橋さんは困ったんだろう。最近の仕事ぶりを見るにもう長編は書けないのかもしれない。後進の指導に力を注ぐ方向に切り替えてる感じすらある。世代的なことで言うと村上春樹も一緒だろう。初期三部作はもろに学生運動ノリが出てるし、プレへの視線が足りないのも一緒。まああと保坂和志もそうかな。年齢知らんけど多分近いはず。源一郎先生が町田同様複雑な態度でしか接することが出来ない存在としては、橋本治がいると思うのだが、彼は源氏物語古事記の桃尻語訳をライフワークとしているように、モロにプレモダン志向の強い人である。

話を戻す。展開としては、序盤から中盤にかけては設定や伏線の準備と、様々な問題のある人物の紹介に終始しており、やや読みの快感は薄かった。まあしょうがないか、とも思うのだが、しかし、これもよくよく考えてみると、時代劇のノリを踏襲している面がなくもなくて、そう考えるとすごく面白い。ほとんど時代劇なんか見ないが、まあ一時間だったら二十分ぐらいはだるい感じである。あれなのかも。

後半からは怒涛の展開で、一気に読み終えた。一番笑ったのは、最後パンク侍である、とか言って浪花節的な展開になり、不覚にもちょっと泣きそうになったりして、やっぱ最後は予定調和をあえて持ってくるのか、たまらんなあ、と思ったら次のページで即死して終了、というオチ。小説内では時代劇への愛すら相対化されていたわけだ。まあこのあたりは、所謂作品と作者の関係、って話につながるのだろう。作品に病因論的ドライブがかかるパターン、ってのは多いが、これはおそらくそのドライブをほぼ意図的にコントロールして書かれている小説である。ていうかそうでなかったら書いてる間に発狂してるはずである。特に偽教祖、茶山三郎の造語だらけのキチガイ発言のリアルさは異常。去年考えてた話でいえば、この人は完璧によう狂をマスターしている人だと言える。勿論紙の上での話ではあるが。それでもすごい。そういう人は俳優に向いているんだろうと思う。映画化うんぬんにはまるで興味ないが(けものがれもつまらんかったし)、仮にパンク侍を映画化するようなことがあったら掛役は町田康自身にやってもらうとますますイーストウッド的でよろしい感じがする。

というか、パンク、ってどういう概念なのか、ってのもすごく気になった。ピストルズに感化されてINU結成、という逸話が事実だとすると、ピストルズの精神を考える必要があるな。ノーフューチャーって映画あったから観よう。パンクってのは創始と同時にその限界がしっかりと刻印されていたのかもしれない。と考えると町田康はパンク侍役ではなくて猿のボス大臼をやったほうがイーストウッド的か。あれはいわゆる決して実現しない理想自我、ってやつだろうから。よするにパンク侍、ってのはパンクぶってるアホだから死んでよし、ってことなのかもしれん。町田康自身はパンクを理想としてはいるが、人間なのでパンクそのものを体現することはできんのだろうか。

猿回し、についても考えさせられた。ダウンタウンのごっつの猿軍団のネタなんかもあるように、単純に人―猿の主従関係を逆転さすことは笑いを産む。日々ストレス感じてる人には特に効く。その逆転が連続で起きる、というところがそもそもの猿回しの面白さ、ってところを考えると結構構造が複雑なんだが、とりあえず、逆転の連続による笑い、ってのが猿回しの魅力、ということがまああるわけだ。

で、その逆転が素早く何度も起きる、という点は、ギャグ漫画やアニメに近いと思うのだ。これは完全にわき道にそれた話だが。それについては、「なんちゃって」考として斉藤環先生の文脈病に詳しく書いてあったわけだ。本題に戻る。

この小説にはその猿回しの構造、ってのが通低音としてあると思われる。大臼登場以降の流れ、ってのは、人間があくまでも外から神の視点に立って完璧にコントロールしている限りにおいての、興行としての、芸能としての、猿回しの面白さが、人間精神で制御できない範囲にまで拡大された寓話、として読める。これはつまり文脈病の構図で言うと、PSの範囲での笑いから、APシステムとしての笑いへの変化、といえる気がする。言い方悪いな。もうちょい上手く言えるようになったら後で書き足そう。まあ今はおいといて。このへんの話は、劇中劇としてでてくる大浦作の白鷺なんとか、っていう創作劇の構造の複雑さ、とつながってくるのだと思う。パロディの限界とか、人間の限界とか、そのへんで。

大臼はつまり人間を越えたもの、トランスヒューマンとして描かれている。これはカフカ「変身」や媒図かずを大先生「漂流教室」の、未来の地下鉄駅に生息するなんか蜘蛛(カフカとのシンクロ!)みたいな不気味な生き物、なんかの系譜に連なるもの、つまり人間の先にある生き物であり、人間が理解することが不可能なもの、として描かれている。このへんは小泉義之「生命の哲学」なんかを補助線として引くと面白いと思うのだが、ようするに完全なトランスヒューマンを創造、想像できる人間は、ポストヒューマン(新人類かっこわらい)的に生きていける、ということであるような気がする。このへんは戻れる変身と戻れない変身、というテーマで以前ラフに考えた話とつながってくるのだろう。ヒーローものはウルトラマンしかり仮面ライダーしかり大体好きなときに変身したり戻ったりできるもんである。そう考えたら大日本人は映画としてはつまらんかったけど、あのコンセプトには面白さがあるとは思うなあ。また大分話がそれた。戻す。

大臼関連で非常に重要な発言が二箇所ある。どちらも引用する。



「いや、それは僕にも分からない。基本的にはどの猿もある程度は人間の言っていることは分かる。ただその場合、そこに言葉はありません。自分と世界があるだけだ。ところがあるとき僕は僕の頭の中に言葉が満ちているのに気がついた。自分と世界以外に言葉というものがあって、それまで生きていた世界以外に言葉によって出来たもうひとつの世界があることに気づいたのです。しかもそのふたつの世界はなにかによって串刺しになっている。その串は言葉を喋る人間が言葉を持ったことによって抱え込まざるを得なくなった思念であることにも気づいたよ。つまり言葉の世界は言葉によって派生したものによってもうひとつの世界と串刺しにされていると言うことだ。変な関係だよね。だから普通、人間はそのことに気がつかないんだが僕は言語を持たない猿だったので気がついた。理由というのはその思念の串そのものかその思念から揮発した別の思念だと僕は思う。そういう意味では言葉をしゃべるようになった理由なんて蜃気楼みたいなもので、説明してもぐるぐるするだけなんですよ」  p279−280


大臼は櫓の上で腕組みをしてこの様子を眺めていたが、
「なるほど。本当に人間と猿を混ぜ合わすのか。俺は俺が猿として支配層に入ることによって現実を破壊しつつ、最終的にはより低次のところで現実の一角を占め、そのことによってこの世界を存続させようと考えていたのだが、しかしまあそんなものは大抵の革命政権がそうなわけで別に目新しいことではなかった。つまり俺は敗北した。我が事破れたり」 p329

まず前者について。
これはまさにAPシステムが老廃物として排出される言語を媒介(串。廣瀬純的に言えば肉に対する骨であり、焼き鳥の串。)として成立している、二つの閉鎖系システムの接続した開放系システムだ、ということを示すこれ以上ないほどに見事な隠喩となっている。ここで「理由」とされているものは、「起源」と言い換えても良い。宇宙、力、時間の起源を探ってもしかたがない、ということ。そこは人間が言語で考えて到達できる地点ではない。極限という発想。再び廣瀬的表現を使うと、言葉によって脳(精神)、自分、と肉体、世界、が見事に串刺しになっている、ということだ。
人間の発想というのはどこまで行っても、串であり、骨、ということだ。言葉ってそういうもんだ。その言葉を使って言葉を完全に相対化することに成功しているのがこの小説だと思う。言葉を相対化しきると造語が自在にできるようになるので、教祖の電波発言や、町田氏の普段の日記のような、わけ分からん文章を書ける。それをコントロールしつつ書ける、ってのが病因論的ドライブ、ってやつだろう。実際大臼にはなれずとも、大臼を物語内に作り出すことは出来る。ムーミンにはなれずとも、ムーミンの世界を作り出せるのと一緒。

続いて後者。
結局APシステムは開放系であるがゆえに、備えあれば憂いなし、とはならない。必ず未来は予想と異なる方向に向かう。そこを確認するための発言。この引用の直後大臼はメタモルフォーゼして、それこそ意味分からん芥川の蜘蛛の糸的な存在になる。さっき大臼がトランスヒューマンと書いたがよく考えるとそれは微妙に間違っているかも知れず、この糸状物質こそが完全なトランスヒューマンだった。大臼が完成されたポストヒューマンだ。で、僕達一般人が、ポストヒューマンを手本に日々悩み苦しむヒューマン。ベイトソン言う所の学習Ⅲを覚えると、ポストヒューマンに一歩ずつ近づけるようになるので、成長がはじまる。が、すぐに大臼になれるわけではないので、慢心を戒め、日々周囲のあらゆるものから分け隔てなく学ぶ姿勢が大事。

んで、主筋に絡みつつ出てくる多くの駄目人間達の描写について。誰も彼も、バカと天才、狂気と天才は紙一重、という言葉の持つ意味を説明するためにいるような人物達で、ようするに結構惜しい人が多い。教祖なんかは典型的。このあたりは「笑いと宗教」というテーマに関わる。その点で見ても本作はヴォネガットタイタンの妖女」、たけし「教祖誕生」いずれものメインテーマを含みつつ、ウェルベックある島の可能性」に対する完璧な批判として成立している感じがする。大傑作である。高橋さん以外の著名な方々が本作品をどう評しているのかは調べてみたい。興味ある。まあ毀誉褒貶は激しいだろう。それこそ褒めといた方がよさそうだな、と無意識にせよ感じて褒めるパターンもあるだろう。わからんけど、すごい、とか言っちゃって。まあ以前の俺ですが。それかヒステリックな拒絶か。布袋もそっちだったんだろうな笑。競馬騎手の後藤とかと一緒で真の天才は結構目立ちすぎると危ない部分があるから、気をつけて欲しいもんである。どうでもいいが被害届ちゃんと出した、ってのはすごく面白いよなあ。本人がそれについて色々語ることはなさそうだが、気になる。

「笑いと宗教」に話を戻す。
宗教はPSだけでかんぜんに制御しきれない、ということ。要するに、ぱっきりと笑いきる対象とする事はできない、ということ。笑いつつもどこか恐怖を孕んだような、不気味な笑い方しか出来ない。そこらへんが所謂悟っちゃった系の哄笑、ってノリとは違うわけである。これは笑いと恐怖の境界線の問題につながる。ジュニアの初期コントとか。
宗教的狂熱、狂躁的な思念というのは人間誰に対しても宿るし、それはほっとくとカルト化を帰結するので、あんまりおおごとになるようだといくら真っ当な事しか言ってなくてもカルト化を止められなくなったりする、ってことだ。これは本当に気をつけないと。去年の自分の九月中旬から十月ぐらいまでの感じはまさにこれだった。斉藤図式でいうと、PS、OS片方への偏り、躁的発作、みたいな。三池のシルバーが恐くて観れなかった、ということは記憶にとどめておく必要がある。

あと余談だが幕暮の気絶のくだりを読んで、自分が酒を飲んだ際にしょっちゅう記憶を飛ばして暴れたりセクハラに走ったりするのは、無意識にせよ記憶を飛ばそうとする意思が働いていたからだ、という気がしてきたので、これを妄想力だけで治せるか、今年一年かけて検証してみたい。現実問題として欲求不満の有無、というのも関係してくる話だとは思うので、完全な対照実験的なことは出来そうにないので比較が難しいところだが。