M・ナイト・シャマラン レディ・イン・ザ・ウォーター


全面的にネタバレ。

まず、多分どこかでだれかが言っているか書いているかしているはずだが、物語の中心をなす御伽噺の内容は明らかにグノーシス主義創世神話。至高神からの使いを通じて、人間の認識作用、知覚が変容して、プーレローマがうんたらかんたら、とか、そんなん。ようするに電波、ってことなんだが、だからといって、単なる気が狂った奴等がぎゃーぎゃー大騒ぎする、しょーもないB級映画、とは必ずしも言い切れないところが凄い。

そもそも小汚い顔したおっさんが害虫を必死で叩いているシーンを顔どアップで捉えるところから映画が始まる、という時点であまりの脱力感に腰が抜けそうになったし、おそらく意識的に見た目がパッとしない奴ばかりキャスティングしているんだろうけど、映画に出てきても通常は台詞を与えられなそうな奴等ばかりが活躍するし(プールでのパーティ場面に登場するエキストラ達のほうがよっぽど画面映えするという皮肉)、話の展開のさせ方も、石井輝男映画とドラクエを足して二で割ったような、どうしようもない適当さだし、で、まあ映画の八割方はしょぼいB級映画のノリ、というのは間違いない。

ただ、そんな中でもクリーブランドをはじめとするマンションの住人達が皆共通して抱いている、ブルーワールドから来たストーリーという女の子を通じて世界が変わる、という物語をなんとかして信じたい、という気持ち、これだけは丁寧に大切に、一切茶化すことなく描かれる。ここがなんといってもこの映画に惚れこんだ点。

物語、あるいは他人を信じようとする純粋な思い、というのは、たとえその形式や対象がどんなに端からみて奇妙で、物笑いの対象になるようなものであっても、どこかに誰にも否定できない、崇高な要素を含んでいる。シャマランはそういった思いに奉仕して作品を創り出しているように見える。一見悪ふざけにしか見えない演出の数々も、根底にある映画、物語に対する真摯な姿勢に支えられているので、単なるおふざけとは感じられない。そのあたりが立派だなあ、と思うた。

何かを信じようとする思いそれ自体は、絶対的に尊重されるべきものであっても、その対象がたとえばテロにつながるカルト宗教団体だったり、ものすごく視野の狭い、アホ臭い考え方だったり、という場合は勿論あるわけで、そういった場合にはやはり、どこかで何かを信じている自分を客観視できる醒めた視点、というのを同時に持ち合わせている必要があるだろう。その点シャマランは用意周到で、なによりまず作中の御伽噺の絶妙な電波感が、奇妙なおかしみを生んでいて、話の全貌が明らかになっていくたびに笑ってしまうし、(通訳者、守護者、ギルド、ヒーラー、とか次から次へと、どんだけ必要な役割出てくんだよ、とか)その物語を信じて、現実化しようと悪戦苦闘する主人公達のドタバタぶりも笑えるしで、要するにユーモアを挟んでワンクッションおいているので、カルト化はしようがないように出来ている。これも見事。例えばディックのヴァリスは同じグノーシスに影響を受けた電波系の物語だが、こちらは作者が完全にマジになってしまっているので、読むほうとしてはなかなか厳しい。それに対してシャマランのユーモアあふれるスタイル、その抜けのよさ。

これは同時にシャマランの映画自体に対する態度にも表れているような感じがする。なんというか所詮映画(物語、御伽噺)だから。何やってもいいっしょ、やりたいように出来るんだし。といった開き直りというか。評論家が殺される場面とか、右だけマッチョの人がものすごく予定調和な感じで最後にキーパーソンとして出てくる場面とか、やりたい放題もいいところなんだけど、この監督はなんも気にせず、面白そうだから、やっちゃえ!というノリでそういったシーンを撮っているように見える。その感覚もすごく好きだ。道元先生の画餅と響きあうものを感じる。

追記
マンションの中だけで話が解決する点、御伽噺を住人と協力して現実化していくことが、クリーブランドの家族喪失体験のトラウマからの回復につながっている点から、箱庭療法っぽさを強く感じた。