大澤真幸 不可能性の時代

この人が著作でよく引用するペシャワール会の方が亡くなってしまったのと、
昨日たまたま彼が書いた秋葉原の事件に関する論考http://www.yosensha.co.jp/products/9784862483157/
を読んだのもあって、以前斜め読みしたのを思い出し、主に後半を読み返してみた。

「虚構の時代の果て」には、「不可能性の時代」がやって来ているのではないか、という大澤理論の最新版。現実そのもの(?)を抑圧するために、「現実」へと逃避する傾向が現れ始めている、という議論は僕のような人間の脳ではいまいち咀嚼しきれないものがあったが、ハルマゲドンをはじめとする全的な破壊に向かっていく傾向がある、という例として様々な事件や作品が持ち出されるうち、なんとなくそのエッセンスは理解できたような気にはなった。

個人的には、もちろん細かい違いは多々あるだろうとはいえ、人間の考える事など古代からたいして進歩していないに決まっていると思っているので、近代以降では目新しい、「現実」への逃避、という傾向も、もっと長いスパンで見れば歴史上何度となく人間が経験してきているものだと考えている。6章 政治的思想空間の現在、の後半部では「物語る権利」と「真理への執着」の間の葛藤を克服するための突破口としての、無神論的な連帯はいかにして可能か、という論点が扱われている。そこでは、現代社会の分析を離れて、宗教における愛という観念のあり方が精緻に分析されており、近代以降に限定しない人間の知の営みが参照されているところから、特に示唆に富んでいるように思った。ここでの結論部で大澤氏は次のように述べている。

「憎悪と完全に一致した愛こそが、つまり裏切りを孕んだ愛こそが、われわれが求めていた普遍的な連帯を導く可能性を有しているのではないか。ところで、これこそ真の無神論であろう。正義を基礎付ける「超越的な第三者の審級=神」が与えられている中で、その神への愛を神への裏切り―神の存在の否定―と等置することが重要だからだ。 264

これはつまり一言でいうと、「愛は負けても親切は勝つ」ということではないか、と僕は思うのだが、どうなんだろう。そんなに単純な話ではない、とのお叱りを受けそうだが、人間に出来る事など、単純なことでしかないはずだとも思う。

もう一つ気になった部分。

これと似たような仕方で、信仰も、言わば外部委託されているのだ。アイロニカルに没入するためには、どこかに、信じている他者が存在していなければならない、と述べた。どこにいるのか。第三世界原理主義者のところに、である。このことによって、「先進国」の多文化主義者は、「自分たちは決して狂信的な信仰を持ってはいない」と主張することができる。このような形式で、多文化主義原理主義、「物語る権利」と「真理への執着」は依存関係にあるのだ。 234

ここはものすごく大事な部分だろう。
アイロニカルに没入してまっせ、あえてやってるだけでっせ、といくら主張したところで、結局突き詰めると、ベタに没入してるのと同じ。というところで、メビウスの輪のように、正反対だったはずの立場がつながってきてしまう謎。難しすぎてよくわからんけど。

あえて、とか一周まわって、といった留保、エクスキューズを抜きにして何かを信じる事が出来る、というのは個人的には素晴らしい事だと思っていて、宗教にしろ何にしろ、信じられるものがあるのならそれは全面的に肯定していいことだとも考えている。そして、その対象が何であっても、当人にとって信じるに足るのであれば、それでいい、とも。

それこそ「意見の不一致」ではないが、普遍的に信じるに足る価値観、世界観は存在しないのだから、各々精神の平静を保つために何か信じられる対象があればいい。ただ、だからこそ、自分が何かを信じているのと同様に、誰かが別の対象を信じる事には寛容でなければいけないとも思う。単純にいえば、一番大事なのは、何を信じるのも勝手だが、その自らが信じる対象に関することで、他の価値観を持つ人達に迷惑をかけてはいかん、ということ、ただそれだけだと思う。ものすごく大きな意味でのKY。これは厳密には、多文化主義の徹底とは微妙に異なった考え方だ、と思って書いたのだが、違うかもしれない。混乱してきたな。

ともあれ、重要なのはそこだと僕は思う。だからオウムは認めないが、千石イエスは結構好きだ。

僕個人が留保抜きで信じる事が出来る対象は、信の作用、「愛は負けても親切は勝つ」という言葉、女性性、ぐらいか。まあこれだけあれば十分という気がする。

最後の、蛸壺世界の集合になんとか相互交通を生もう云々の話は、まあよく言われてることだろうし、特に感心はしなかったが、その理念を最も具体的に実現してきた団体として大澤氏がしばしば引用する「ペシャワール会」に今回のような不幸があったことは、本当に残念だ。確かに誰かがやる必要のある事だし、絶対に自分にはできない実践を長年に渡って続けてきた、本当に尊敬できる人達である。伊藤さんのご冥福を、心からお祈りします。