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三浦俊彦 「20世紀文化にとってパロディーとは何だったか」

小生は元々米ポストモダン作家ドナルド・バーセルミを題材に卒業論文を執筆しようと考えていた。その理由は、元々批評や評論といったものに対してある程度は関心があるものの、本質的な部分ではそういったものに対して馬鹿馬鹿しさを感じている部分が強く、肩肘張った生真面目な研究だけはしたくないから、上手く頭を捻って、「批評のパロディーでもある、パロディー文学批評」、のようなものをでっち上げる事ができれば、笑えてよいかな、といったものだった。ただ、学部生レベルのゴミ屑のような知識量と脳の回転速度では、そんな高級なものが書けるはずもなく、ボルヘスの短編のような、原典について書いているのやらいないのやら、といった空気感を出したいなあ、と思いつつも、実際には原典との対応関係を丁寧に追って逐一指摘するぐらいが関の山で、自分で研究をしつつも、自分の書いた文章を読み直しては、やっていることのどうしようもないつまらなさに耐えられなくなるような、お粗末極まりないものしかひねり出す事が出来なかった。

その路線にはある段階で見切りをつけ、ここ一年ほどは、全く違ったことを考えるのに知的リソース(笑)を投入してきたのだが、三浦氏によるこの文章を読んで、当時考えていたことが色々と思い出された。当時こういうものが書きたいなあと、なんとなくおぼろげながらイメージしていた理想像のようなものが、ほとんど書き尽くされており、とても驚くと共に、まだ自分にはこんな凄まじい文章を書けるほどの知力はないな、と痛感した。もっと修行せんといかんと改めて思った。強烈にケツを蹴り上げられた感じだ。がんばろう。

どうでもいい自分語りとは別に、本文についても忘れないうちに書いておこう。

ギャグセンスの欠片もないデリダのような人のおかげで、20世紀末には無事あらゆるものがパロディ化され、それによりもはやパロディ対象の原典とパロディ作品の間にかつてはあった階層性すらなきものにされ、やれシミュラークルだなんだといったお寒い話が蔓延し、こんな状況でなお物語ることに何の意味が・・・今書かれるべき文学とは・・・取られるべき映画とは・・・そんなものは果たしてあるのか・・・うぅ。みたいな鬱々としたかっこ悪い陰気臭いジメジメした議論が、ものすごく頭がよいはずのちしきじんたちのあいだですら平気の平左で横行し、そういう人達のせいで世の中はどんどん鬱化、神経症化し、排除の論理があらゆる共同体で作動、家族殺し、いじめ、戦争など前園さんを待つまでもなくカッコ悪い。の一言で断罪すべき、しょうもない出来事が頻発。みんな安っぽい絶望を抱えて悶死。で人類滅亡。という悲しい状況を避けるためにどうするか。最後の前衛としての、前衛芸術のパロディという形式がある程度成熟してしまった以上、もう「撤退」しかないのは目に見えている。終わりの終わりについて思考する中に新しさを見出したい気持ちはわからなくもないが、そっちの道はどう考えても行き止まりであり、あんまりそこに拘りすぎると、倦怠が待っているだけで、押井のような鬱老人になってしまう。さすればとっとと撤退を決め込み、神話・民話的な構造の中で何が出来るかを考えたほうがいいはず。レヴィストロース先生いうところの、便利屋的な野性の思考でもって、ありもんを適当に組み合わせて笑えるものを、しかしそこにはありったけの愛を込めてつくる。そうすりゃ誰もが根本はるみのパイオツを前にしたヘイポーよろしく、「あら、いいですねぇ」となるに決まっているのだ。