樫村晴香トークショー

適当にメモを再構成。厳密なものではないので間違っている部分もあるかも。責任はとれません。

保坂本より三つの風景について

①p18 フアン・ルルフォ コスタリカ

最も光の色が美しい
色の表現、使いかた
cf.ディキンソン
何かの表現としての色なのか、単なる言葉としての色なのか
「世界が落ちていた」と書かれるとき、その「世界」には、実体があるのかないのか

「色」の重要性 プラトン、カント、紫式部らにとって特別なもの

源氏物語
当時から季節にまつわる感覚はコード化済。真夏、真冬といった風雅の感覚が完全に消失し、強度のみが残る場で二種類の世界が現前するような、奇妙な感覚を光源氏が味わう記述が存在する。 色が見える ヒステリー 女性

②ロート タイ、スリランカ

太陽がストンと落ちる、色がない 金属性
椰子の葉、風の物質性、最後に残る笑い声
cf. ブッダ 分裂性 菩提樹 
   後期ヘルダーリン


③p94 レリス アフリカ

あらゆるものが豊か
男の子がオウムを買ってくることの面白さ
トーテミズム 双子
今ならケータイにあたる?貧乏でもやたらと豪華な形ケータイを欲しがる女性たちの存在

男女の違い ニーチェの面白さでもある
モノとの関係 男 理想自我に一体化する志向 女の場合は違う その場その場の対応

ヨーロッパでは、女の子にお金をあげると必ず洋服を買ってくる。そしてそれを似合わないといわれると、無際限の落胆を感じる。しかし、次の服がやって来るとその落胆はリセットされる?

アフリカ: シニフィアンでなくシーニュの中で生きている
日本  : 天皇制 第二次大戦中「三種の神器」をどう守るかが真剣に議論されていた

両者には若干の共通点あり。

言葉が真理に奉仕する形式であるか、その場しのぎでもいいから、うまくやるように使われるか
アフリカは後者。真理に対し言説が奉仕することはない。例えば、誓約書の文面は、同じ内容についてであっても、毎回異なる。

タイにゲイが多いこと
(切り離された)現在に向かい快楽が向かう文化
快楽を全うするためには女性的であるほうが好都合

シーニュをばらばらにすると、世界に対する能動性、主体性は働かない


磯崎憲一郎「肝心の子供」について

古谷 三代経ることで考えの抽象性が失われていく
二代目 全てのものの固有性が見えてしまうがゆえに一般化、抽象化が困難に
    カブトムシを育てることが、具体的に考えること、であるかのように読める
三代目 かつて人間がたどり着いたことのない中空に達している

保坂 鉄の歴史についての挿話のような、いわゆる読んでいて線を引きたくなるような、概念的な箇所は実は面白くもなんともなくて、そこに読者を導いていく風景の描写の仕方や、人物の動かし方に面白さがある。

しかし、線を引きたくなるような箇所、が皆無である小説を、はたして興味を失うことなく読み通せるものなのか?


セザンヌニーチェ 因果関係と自由意志について

だんだんと、ものを考えることが困難になってきている?
因果関係は存在しない、といった議論はヒューム以来言い古されている

人間は因果関係を完全に廃して生きていくことができるか、そこから別の文化を形成できるか、という問題

ダヴィンチの少し前に、イタリアのなんとかという学者が自由意志の概念を捏造

認識の貧しさとすりあう
神は意志できるか スピノザ

概念は感情の源泉である、という認識のもとに意志することは可能か、という問題。(ニーチェ?) ワーグナーに転移していたせいで突き詰めて考えるには至らず

言葉・認識
実体を縮減する形での思考
天文学など

80年代まで、数学の理論が実体か、単なる記述体系か、という問題については誰も考えていなかった。

現在 純粋な「真空」があるという発想は覆された

ニーチェの実体
概念の側からではなく、具体的なモノからやってくる?


英国 保険会社 万歩計のようなレーダーで生活が全て監視、データ化されている
あらゆるものが過剰に情報化される状況において、能動性を働かせることはいかに可能か

(ここからは自分で考えたことが混ざっているため、特に適当)
過剰に情報が与えられることで、対象の神秘性が剥ぎ取られる。情報が勝ってしまい、ジャンプできない感じ。全てわかったような気分になってしまい、しらけて転移が発動するところまでいかない。そういった状況で、どんな対象に転移を起こせるのか

exナミビアに旅行したい、と考えた場合 
一般的にはなじみの薄い場所だから、事前に情報を得てからでないと行けない、と考える。そこでさまざまな手段で情報を大量に収集する。すると、情報が勝ってしまいジャンプできない状況、わざわざ行かなくてもいいかな、という感じが出てきてしまう。
どこへ行っても、牢屋にいるような感覚


「転移」について 続き
そもそも転移とは?
ex たとえば、なにか映画を観て、この映画自分がつくりたかった、とか、これについてラカンだったらどう言うかな、など、誰かのことを思い出すこと

ラカンの思想を完全にマスターしていないからこそ、このように考えることができる。
もしマスターしていたら、モノマネ、完コピできてしまうから、わざわざラカンだったら〜と考える必要がなくなる。
こういった状況で理性的主体を保持することはできない。


転移が完全に皆無、という状況 通常健康な人間においてはありえない
沙漠の中に一人、というイメージ 境界例神経症

転移不可能→能動性、自由意志がなくなる

抑圧された外傷があれば、行動に自己拘束性が生まれるので、能動性を組織しやすい。

あらゆる転移が不可能となる状況下においては、世界そのものが外傷の再演となる。これは神経症的ではない。(狂ったあとのニーチェはその世界を生きた?)

絵が単なる表象になっていたら、芸術ではない

世の中皆賢かったら歴史はすぐに終わってしまう? パスカル


ドゥルーズのどこが間違っているか
永遠回帰 蜘蛛の糸、月の光
広域的アルゴリズム、ローカルな記憶回路の混乱


セザンヌについて セミネール11巻
フランス人にとっての外傷
ex 仏の美術館では、ガイドが比較的丁寧に作品について説明を加えることが多い。しかし、セザンヌについては上手く解説することができず、仕方なく沈黙してしまうガイドもいるらしい。

ベタな説明を越えるもの、一切意識化できないもの

二種類の人間 ある種の訓練、お勉強を経なければ芸術的感性が身につかない人間と、文化的訓練を経ずに、作品から伝わってくる感触をそのままつかめる人間

セザンヌ 一切、快楽に奉仕していない。 松の木、岩の描き方など

現代芸術 部分欲動化が進んでいる

視線の問題
自分が分節するわけではなく、絵画に見られて分節されることによって分節する

リンチ
外傷と視覚的部分欲動を短絡してしまう


自由意志 
アウグスティヌス
神が定めた世界で悪はいかに可能か
神にそむく何か、から自由意志の問題がでてきた
神の定めがあって、再び意志する、とか言い出したのはプロテスタンティズム以降

転移空間 神学的には邪悪
信仰 キリストはいい男だからキリスト教を信じることにしました、ではダメ

神を目の前の人間と再度接続しなおす必要が出てきた
⇒三位一体論の形成 それとともに、自由意志へのあいまいな態度が確立された
  神の定めと、目の前の人間に向かう力動を接合

自由意志の具体例
例えば、今日は会社に行くのがだるいな、逆向きの電車に乗ってしまえば会社をさぼれるのに、という状況。そこで、やむにやまれず逆向きの電車に乗ってしまうのは、病的。あくまでも冷静に逆向きの電車を選択するとき、自由意志が発動している