黒澤清 トウキョウソナタ

なんとか終了前に劇場で観る事ができた。以下ネタバレ感想。


なんといってもラストシーンの香川照之の表情に尽きる。他は全部どうでもよくなってしまうくらい素晴らしい表情だった。泣きかけた。これを観てなんで主演は役所さんじゃないの?とかいう人はひとりもいないんじゃないだろうか。

撮り方ではまず、父、母、次男の三人に朝日が降り注いだ後の食卓や発表会のシーンで、それまでのシーンとは全く異なる、やわらかい光が溢れていたのが印象的だった。そこまでのシーンでは、これは観賞後に見たどっかの新聞評の切り抜きに書いてあった表現を拝借するのだが、「硬質」な空気が全体に漂っていた印象があり、最後の場面との対比を考えた場合、まあ多分光の取り入れ方なんかは関係あるんだろうな、と思わないでもなかった。

そこまでのシーンでは、最初に食卓の新聞が風で舞い上がるところから始まり、家の中のシーンであってもことごとく不穏な空気に満ち満ちており、それこそ現代日本の家族を描いたらホラーになっちゃいました、とか言われても仕方がないのでは、というほどにホラー的な雰囲気が随所に感じられた。

例えば、最後のシーンをのぞく食卓シーンでは、その多くでカメラが、食卓に並ぶ家族を直接映すのではなく、食卓の手前に二階へと続く階段を捉えた、食卓の上はほとんど見えない位置であるとか、台所の側から、数多くの食器の隙間から辛うじて食卓の一部が見えるような位置におかれていて、それだけでただならぬ不穏さが出ていたように思う。

他にもカメラ位置の低さとか、死角を上手く利用した撮り方など、屋内シーンでは随所にホラーっぽさがあった。

かと思えば、香川照之演ずる夫の友人がらみの場面なんかは、特に携帯が自動で鳴るようにタイマー設定してる、というくだりなど、とにかく笑えて、相変わらず、笑いと恐怖の境界を上手く突いているな、という印象も。

コメディ色の強い中盤までの展開から、劇的な事件が立て続けに起こる終盤へとなだれ込んでいく展開も、荒唐無稽ながら冷めてしまうこともなく観られた。上手さなんだろう、そのへんも。

内容面では、細かい家族の会話のすれ違いなんかは、自分の家庭ともある程度にている部分があったりで、笑えないけど笑えるなあ、という感じだった。そういえば、女性についてあれだけ描くのは珍しかったな、と思っていたら、観賞後知ったが、女性の部分はどうしても話が思いつかず、若い女性に投げて書いてもらったようだった。そもそも初稿はオーストラリア人が書いた家族ものだったそうで、そこでは父親と次男の二人に主な焦点が当たっていたのを、四人同等にして再構成したものが完成稿となった、という顛末だったそうで、なるほど、小泉今日子パートの台詞回しなど、脚本の細部に若干の違和感を感じたのはそういう部分だったのかも。

家族四人全員について同程度の深さで掘り下げて描いたことで、一人一人の葛藤がそこまできわどいレベルまで出ていなかったように思ったのと、もともとある家族という共同体を使っているためか、カタルシスを与える場面がラストだけになってしまっているのがまあ残念といえば残念だったが、設定上まあしょうがないんだろう、とも思った。四人も同時に扱ってここまでまとめるのはなかなかすごいことのような気もした。

他の家族ものとの比較、という点で考えると、

ニンゲン合格アカルイミライの二本は、一人の若い男性に焦点が当てられ、その主人公が、家族という共同体がすでに壊れたところからスタートして、擬似家族的なコミュニティを作り上げていく物語だった。二本において、一人の若者が、大人の男性としていかに成長、成熟するか、という非常に困難な問いに対する答えは同じようなものだった。どちらの作品でも、主人公は、ある種の信頼関係で主人公と結ばれた、年長者の男性の助けを借り、また、馬やクラゲを媒介としてある種の奇跡に触れることで、きっちりと閉じた箱庭を作り上げることに成功する。そして、そこで自分だけの小さな世界がしっかりと確立できたことを確認すると、主人公はそれを壊し、改めて現実と向き合っていく、といった構造をとっていた。

今回の作品は、まず、家族という、すでにある、あらかじめ与えられた共同体の崩壊と再生が描かれている点が前述の二作と異なる。家族という箱庭の中で物語が進むため、一人一人の登場人物が、それぞれ箱庭的世界を構築していく様子は描かれない。ただ、徹底した破壊から再生の可能性が現れる、という点では前二作とそれほど変わっていなくて、今回は、それぞれの登場人物が大きな事件に巻き込まれることで、逃れられない呪縛のような形で、重苦しく成員全員にのしかかっていた、家族という箱庭のくびきを断ち切って、ある臨界点にまで到達する。そこから、朝日や次男の弾くドビュッシー「月の光」が媒介となって、一人一人、ある意味で家族という共同体の限界、矛盾を身をもって経験、認識した存在として、言い換えれば、個人個人、それぞれ一人の人間として、家族という共同体に再帰的にコミットしていく予感、のようなものが描かれて映画は終わる。

現にあって、避けることもなかなか難しく、かといって上手く機能しているとはとてもいえない家族という共同体に再帰していく、という物語の流れゆえ、ニンゲン合格や、アカルイミライにあったような、涙腺完全崩壊涙ちょちょぎれもののカタルシスはほとんどなかった。終盤で目いっぱい荒唐無稽な展開に持っていっても、あそこまでが限界なのか、と考えると、今の世の中で、家族という制度にかかっている呪いが、いかに半端ではないか、というのがよくわかる。

ただ、最後に香川照之が見せた表情は掛け値なしでとんでもなく素晴らしいものだった。自分の価値観を押し付け、それがなんなのかももはやよくわからん幸せを息子に与えるため、必死になって虚勢を張ってきた、それまでの自分の営みを、全て水泡に帰させるかのような、息子の奏でるピアノの音の美しさに、感動しつつも絶望する父親の顔。自己に、家族に振りかかる矛盾を引き受けつつ、それでもなんとかやっていこうとする決意に満ちた、顔。あれだけの表情をしていても、クローズアップまではいかない、というストイックさもすごいな、と思ったが、いずれにしろ最後のシーンの表情、あれだけのためにでも観に行ってよかった映画だった。終了後見たインタビューではどうやら香川氏自身もラストシーンは気に入っているようだった。おそらく本人にとっても会心の演技だったんだろう。