高橋洋 ソドムの市

ネタバレ。適当に印象メモ。

恐怖と笑いの関係、という視点から見ると気になる部分がとても多い映画だった。
恐怖と一口に言っても、ピンからキリまで、様々な種類があると思うのだが、おそらく、この映画で描かれている恐怖は、もっとも根源的な恐怖、死の恐怖だけだったのではないか。まだ知識が固まっているとは言いがたいので的外れな部分があるかもしれないが、精神分析の用語系だと、タナトス反復強迫とが、かなり大きく関わってくるところだ、というのは間違いないはず。

嫁殺しに関与しているとの勘違いから、二人の女を殺してしまったことで原罪を負ったソドムが復讐されることで完結するはずのストーリーは、なかなか終わりを迎えることが出来ない。ソドムは杖を手にした時点ですでに一度死んでいるため、銃が全く効かず、そのためなかなか危険に陥らない。日光と十字架には弱かったようだが、ただ一度迎えたピンチも仲間の助けにより大事には至らない。ラスト前になって、ようやくはじめに理由なく殺された二人の女が出会い、歌を唄いソドムへの復讐を果たしそうに見えたところで映画が終わっていれば、まあわりと上手くまとまっているということで済んだような気がするのだが、そこからが凄かった。なぜかソドムの市を含む、メイン級の登場人物全員の前に刀が登場、終いには敵味方入り乱れ、途中で死んだ人物まで総登場しての、混沌とした殺陣の場面へとなだれこむ。誰もが、何度となく斬られているにも関わらず、死ぬことは出来ないまま、殺陣の場面からカメラは移動、どこか高いところから殺陣を見つめる、爺と最初に死んだ花嫁の会話場面に移る。そこで二人は、終わりを終わらせることは出来ない、と語り、これで終わりだと爺が話すとともに唐突に映画は終了する。

まあわかりやすい隠喩としては、最後の殺陣から爺の発言への流れは、映画をめぐる原罪の状況への批評、とかいうことになるんだろうが、それを思いっきり拡大すると、そもそも人間は自分の死について知ることは出来ない、といった人間精神全体が例外なく持っている特徴の話にまでつなげられるような気もする。

「終わりを終わらせることの可能性/不可能性」という話は、最近あらゆるジャンルで結構はやっているテーマで、最近だと例えば「スカイ・クロラ」とか、あとは個人的にはノータッチだが、一部の偉い人がこぞって語っているのを読んで、似た要素が強く出ているように感じた作品として、「ひぐらし〜」とか「九十九十九」なんかが、なんとか終わりを終わらせようとして、もがいている作品として挙げられるだろう。自分としてはそこにこだわっても何も出てこないというか、そのへんの問題は人間の知性の極限を越え出ているので、扱わないか、この映画のように、それは無理だよ、という結論を、思い切って笑える感じで描くか、しかないと思う。

終わりを終わらせるのは不可能だ、という立場にたつということは、必然的に、映画の、あるいは生そのものの、呪いを引き受け続けることを選択することと同義となるだろう。それには、終わりを終わらせることを目指し続けるのとはまた違った、ある種の決意と覚悟が必要だと思う。覚悟を決めて、そういった業と死ぬまで付き合い続けることを決断した人にしか撮り得ない映画だったような気がする。映画という形をとるかどうかは別として、自分もこういった覚悟を持って、生きて行きたいとは思う。

余談だが今読んでいるポーのユリイカや、スピノザのエチカ、吉田健一の考え方、なども、この立場にたつものであるような気がする。まあ読んでから考えよう。



笑いサイドでいうと、特に気になったのは反復そのものを笑おうとする視点。強迫的に天丼ギャグをカツ丼でとってしまうことが、結局はタナトスの現れだから笑いで防衛する、という感じか。カツ丼がらみの場面や、ソドムが軍団で悪事に走るとき、必ず最後尾のソドムが盲人であるために、仲間達と反対方向に歩き出してしまう場面とか。カツ丼屋での店員の殺し方なんかは、野爆っぽさがあった。

あと、このタイプの映画で、自主映画っぽさがプラスに働いているように感じたのははじめてだったので、そこは注目ポイントかも。石井輝男の遺作なんかは本当にひどかったが、これはまるでそういう感じがしなかった。まあそもそも比較対象として微妙かもしれないが。この監督は美学校の先生らしいから、撮り方にはおそらく非常に自覚的なんだろうし、なぜこのスタイルをとったのか、は考えたい。あとは映画版呪怨とこの人が脚本した映画を何本か観て、古谷氏のJホラー論を読んで、批判的に取り入れつつシャマラン論に強引につなげてみたい。余力があればポーも絡めて。