メル・ギブソン アポカリプト

ネタバレ。
「パッション」はたしか劇場で観て、そのとき近くで映画を観ていたシスターの女性が、中盤から号泣し始めたことに、かなり衝撃を受けた記憶がある。この作品も、パッション同様、なんでそこまでしなければならんのか、と首を傾げたくなるほどに激しい暴力描写が満載。獣から、人から、血がふきだす場面のオンパレード。相変わらず、超ど級の業の深さは健在だった。またこれも「パッション」同様、時代考証の厳密さも偏執狂的な域に達しており、全編ヘブライ語(!)の前作を経て、今回は全編マヤ語(!!)という無茶苦茶さ。暴力描写の激しさも含め、とにかくメル・ギブソンが強迫的ななにか、に突き動かされて映画を撮っていることは間違いないだろう。では、なにが彼を映画撮影に突き動かすのか、その動機はおそらく宗教的なものなのだろう。「衆生の倫理」、「UFOとポストモダン」あたりで出てきた問題系と接続して考えると面白そう。ここ二作の主人公は、いずれも恐怖を超越し、決断する主体、という共通の人物像を持っており、教祖、首長という身分的な違いこそあれ、いずれもある共同体内で特権的な位置を占めるカリスマである。ここ二作は、そういった民を主導するカリスマの誕生を扱った映画である、と言っていいだろう。

観ていて最も驚いたのは最後の展開。海にやって来る船を無視して、森に戻っていく主人公たち家族の姿を最後に映し出したことには、監督のどのような意図があったのだろうか。これはよくわからなかった。まあ監督はキリスト教徒だから、そことの対応、ということにはなるんだろうが。

部族の日常の描きかたなんかは、「野性の思考」を思い出させる部分多し。あとどうでもいいが主人公は顔がロナウジーニョに似すぎだった。彼が走るシーンが散々出て来るんだが、ほとんどロナウジーニョにしか見えなかった。まあ部族顔、ってことなんだろうけど笑。