アッバス・キアロスタミ そして人生はつづく

「友達のうちはどこ?」の続編。「友達〜」の舞台となった町が大地震に襲われてしまったのを受けて、当時映画に出演してくれた人々の安否を確認しに、再び当地を訪れるところを作品化。道すがら出会う、家族の多くを失ってしまった人々に、それぞれ地震について語ってもらう場面がひたすら続くのだが、劇中に出てきた人々は、その全員が驚くほどあっけらかんとした態度をとっていて、それがとても印象に残った。家族が死んだことも、自分が生き残ったことも、全て神の思し召しの一言で納得できるというのは、なかなか日本で暮らしているぶんには、想像しづらい部分だった。

まあ、もちろん親や子が死んで悲しくないはずはないんだろうが、その一方で彼らは、たとえ家族が死のうがどうなろうが、とにかくその日の飯を食い、寝床を確保するためには、落ち込んでいる暇などなく、家族が減ったぶん、ひょっとしたら以前以上に懸命に働く必要があるわけで、そんな中で、なんで自分だけが生き残ってしまったのか・・・とか深刻ぶって考える暇な時間なんぞないから、とりあえずまあ神様がそう決めたんだからしょうがないよね、という形で暫定的に納得しておき、そうこうしているうちに時間は過ぎ、地震当時のショックは徐々に薄れていく、という感じ、なのかもしれないな、と思った。妙にからっとした人々の死生観からは、なんとなく深沢七郎の「楢山節考」あたりを思い出しもした。

あとは、ドキュメンタリーとフィクションの境界について露骨に考えさせるような場面もあった。この人の演出の仕方、対象との距離のとり方からは、わざとらしさ、いやらしさをまるで感じないので、基本的にすごく好きなんだけど、まあどこまでが演出なのか、というのはなかなかわからない部分でもあり、たとえば、上の文章は映画に出てくる住民達の声がだいたい彼等の本音をあらわしている、という推測から書いているんだけど、そんな保証は全く無いわけで、本当は住民達は皆悲しみに沈んでいるのかもしれない。アメリカやヨーロッパに比べ、われわれ日本人にはなじみの薄いアラブ住民の生活を切り取っているからこそ、素朴に演出を事実として受け取ってしまっているのかもしれない、という恐れもまあなくはないだろう。このへんは難しい問題だ。