斉藤環 生き延びるためのラカン


フロイト「機知」
駄洒落のような、機知によって語られる言葉には、ふだん抑圧され出てきにくい内容が検閲を経ずにあらわれやすい
抑圧を取り除くことが緊張の開放につながり、笑いをもたらす。
ex. 若い患者にマスターベーションをしたことがあるかどうか尋ねると、返ってくる答えはきまって「いや、そんなことは一度も(O, na, nie)」。

機知が成立するためには、笑われる対象となる人物のほかに、笑ってくれる第三者が必要
cf テレビとかの、足された笑い声 字幕 ツッコミ



人間は、言語的な分節機能を逆用して、モンスターや夢などの、イメージを作り上げることができる。逆に考えると、怪物や夢を生み出す想像力は、言語に強く依存しているといえる

怪物づくりの「文法」
・巨大化させる
・なにかを欠落させる
・異質なものの組み合わせ デペイズマン

フロイトのfort-da
母の存在をコントロールしているような空想にふけること
言語=象徴を手に入れることで、「存在そのもの」「現実」から決定的に隔てられる。言語で語るか、イメージすることで接近することしかできなくなる フ「ものの殺害」

「ママ」と呼びかけた瞬間、「現実の母親」を殺害している
こうして「子ども」は「人間」になる フ「子ども時代は、もうない」


象徴界への参入=去勢、父殺し、という理解でいいのだろうか。イメージ・象徴(ファルス)を作り出すこと、が父殺しで、それにより母との未分化状態を克服する、という流れ。

ネオテニー時代に 大人化するとは?とか。通過儀礼



「連続性」と「切断性」<−>「エロス」と「タナトス
他者によって去勢されるという幻想は、生涯にわたって繰り返される



想像界と攻撃性
フロイト「小さな違いの自己愛」
外見や性質がまったくかけ離れたものどうしでは生じにくい敵意が、似たものどうしの間では生じやすいことがある。それは、似ているがゆえに、ほんの少しの違いに固執して、自分のほうが優位に立とうという感情だ。よく「近親憎悪」なんて言い方があるけど、これに近いかな。90

cfラカン 症例エメ
鏡像との、所有とコントロールの権利をめぐる戦い
ルネ・クレマン 太陽がいっぱい


10対象a
欲望をめぐる寓話
象徴界を介して演じられる「救済」の反復
ex宮沢賢治 グスコーブドリの伝記

対象aを介した治癒 求めるな笑 的な
宮沢 よだかの星 セロ弾きのゴーシュ 貝の火

欲望を否定する必要はない。大切なことは欲望の仕組みを理解したうえでときに無欲を装って生きることだ。象徴界への支払いを忘れなければ必ずいつか報われるなぜならそういう「手紙」は必ず宛先に届くのだから。 114


11 フェティッシュと否認
去勢不安→イメージの否認
象徴的には受け入れているため、「分裂」が起こる
広義のフェティッシュにはホモ、ロリ、ペドも含まれる

12 欲望とヴェール
ラカン フェティシズムについての発言 「なぜ覆いは人間にとって、現実よりも価値があるのか?」
抑制の美学、覆いの美学、控えめであるほどリアル、チラリズム
エロのみならずホラーにもいえる
幽霊は間接的にあらわれるほど恐ろしい?
ex上田秋成 雨月物語 より 吉備津の釜
「そのものずばり」ではなく、その周辺や効果だけを描くことの有効性
隠喩的なものに反応しやすいという人間の感性

精神分析的な、隠喩を通じて人間を理解しようとする考え方は、解釈学に近いが、先入観→理解→先入観の無限ループ、いわゆる解釈学的循環に陥らない点で、現象学とたもとをわかつ。 134

ようするに精神分析の理論枠組みは、無謬、無敵の、外部を持たない理論体系だ、という話だろう。そもそも閉じた理論として、というよりは実際に効果を生む技法、としてみたほうがいいのかもしれない、という問題はあるけども。

解釈されるべき「覆い」が症状である。


13ヒステリー
憑依 イタコ 巫女は「プロのヒステリー」?ex「犬神憑き」「狐憑き」 女性性


シャルコー
狂女の象徴、ハムレットのオフィーリアの格好をさせた患者を講義で見世物的に扱った。催眠術かけて発作の演技を誘発させたり。
cfユベルマンアウラ・ヒステリカ」

フロイト
症例アンナ・O
ヒステリーを「表象による病気」と考える
「幼児体験」の「トラウマ」が「抑圧」されたのち、「症状」として回帰する。(幼児体験についてのニュアンスは、後に訂正され、トラウマ体験が現実にあったかどうかに必ずしもこだわらない、「心的現実」という表現に取って代わられた)

ヒステリーの二つのタイプ
転換ヒス  心の葛藤→身体の症状  exシャルコーの患者とか
不安ヒス  なにか外の対象に不安が結び付けられる 「恐怖症」の形をとりやすい

フ  転換症状の苦しみは、オーガズムと同じ 症状が出ている部位は性感帯
ヒステリー者は身体をエロス化するけれども、性器的な快楽は麻痺している 145
こういう逆転が、ヒステリー患者を好色そうに見せる反面、いざとなると性関係を拒否するような態度にもつながる、セックスアピールを振りまきながらも、自分がセックスすることに対しては激しい嫌悪感を示したりする女性。

ヒステリー者の欲望は、常にこういう矛盾や分裂を抱えている。なぜか?


ラカン
転換型について
想像的な解剖学にしたがって起こる
フ ヒス症状が、有害なイメージを抑圧することによって起こると考える
ラカン それにプラスして ヒス症状は「イメージを介して」表現される、と付け加える
イメージの「覆い」を用いて自分を表現する主体 「分裂」をはらむ
ヒスは神経症の一種で、強迫神経症と対になっている

ラ 神経症を「問いの構造」として説明
ある形式の問いを発し続ける主体を神経症と呼ぶ
ソナチネ「あんまり死ぬの怖がってると、死にたくなっちゃうんだよ」


一方、ヒステリーは性をめぐる問いかけである。
ヒス者が問うのは「自分は男なのか女なのか」「女とは何か」とう問いかけ
この問いの形は、患者の性別と無関係!

斉藤 ラカンのヒス論に対する個人的解釈
「性別への問いかけ」とは、「関係性」への問いかけ
ジェンダーは関係性の中にしか存在しない
「存在への問いかけ」と「関係への問いかけ」が対になっている
あらゆる関係性は性的な関係性

ヒステリー いつの時代も社会制度、学問の枠組みを逸脱し、「性」すなわち「関係」を通じて、挑発を続ける存在
「女性は存在しない」


14 女性
ラカンの「誠実さ」
精神分析が扱いきれない対象には、その限界をきちんと踏まえ、限界がなぜ存在するのかを指摘(それによって解釈学的循環に陥らないようにしている)

その代表的例が「女性」

象徴界のなかでは、女性は「男性ではない」という否定的なかたちでしか示すことが出来ない。女性を積極的に指し示すようなことば、シニフィアンは存在しない。「優しい」「菩薩である」といった特徴をひとつずつ足し算することは出来てもすべてを尽くすことは不可能。(帰納的に近づくことしか出来ない)

男は、象徴界において、ファルスを中心として、男全体を指し示すような閉集合をつくっている。ところが女性の場合は閉集合にはならないので、「女性一般」を定義しえない。それをラカン風にいうと、「女は存在しない」となる。 (女性の神秘性)

男女の欲望のあり方は非対称。女性にとっても女性は謎の存在。「女とは何か」は男女どちらのヒステリーにも共通の問い。
cfラカン異性愛者とは、男女を問わず、女を愛するもののことである」


「性関係はない」について
「快感原則」(不安や緊張を解放し、楽なほうに向かおうとする、不快を避け快を求める傾向)
快感原則は享楽を抑制するための規則
ex麻薬を禁じて、酒でがまんさせるようなイメージ
去勢の段階を通り抜け、象徴界に参入したときに、享楽を禁じられる

三種類の「享楽」 斉藤氏の簡潔な要約
・ファルス的享楽 射精のイメージ 能動
・剰余享楽 放出されぬまま心に溜まっているエネルギー
・他者の享楽 究極の享楽。すべての緊張が完全に放出される。 受動

男性的享楽はすべてファルス的。女性的享楽には、「他者の享楽」という側面がある。しかしそういう享楽について何も知らない。

男女がまぐわってる場合 お互いの欲望、享楽のありようはすれ違っている
それぞれが抱きしめているのは相手に投影された幻想
「性関係はない」とは、「男女は本当の意味で関係をもつことができない」ぐらいの意味にとればいい。 

人間における性は完全に象徴的なものでしかない。生殖や繁殖は象徴界の外、現実で起きる出来事。
cf岸田秀「人間は本能の壊れた動物」

「女性は男性の『症状』である」 対象аになってるぐらいの意味
男女の非対称性 おたくVS腐女子


15 精神病 分裂病など
分裂病は文脈病 cfベイトソン ダブルバインド
象徴界が故障した状態 エディプス構造が壊れている 「父の名の排除」

重症の患者は「夢」を見なくなる


16 現実界
芥川「藪の中」 イメージにより汚染されている「現実」
現実界 カントの「物自体」との類似
荘子「混沌、七穴に死す」 混沌と現実界 あな

胡蝶の夢」 胡蝶と荘子の間にあって相互の行き来を可能としているのが現実界
ラカン 荘子に戻ってから自分が荘子か胡蝶か自問自答しているため両者の関係は非対称。荘子の主体性を保証しているのは、この自問自答、胡蝶でもありえた可能性である。

トラウマや幻覚のようなかたちで主体の内面に入り込む「現実」や「享楽」→ 「外密」


ラカンの立ち位置
幻想の基盤としての現実を肯定するという意味では、頑固なまでに唯物論者であり、決して観念論者ではない。 cfシニフィアンの物質性うんぬん

精神分析は事後的な解釈、後知恵の技術なので予測にはまるで向かない。
単純なら予測可能だが、トラウマプラス過去の様々な経験、から出てきた症状は、複数の要因がからみあってるから後から「解釈」することしかできない。

「反復」は象徴界のシステムがあってはじめて可能になる
精神病
象徴界が機能しない 去勢の失敗
隠喩、文脈が理解できなくなり、言葉が現実的なものとして迫ってくる
幻聴、外密(ただこのあたりは相当眉唾もの)

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ボロメオの輪 三界の結びつきをトポロジー的に表現
象徴界の働きは、想像界のスクリーンを通してはじめて意味あるものとして受け止められる。(嘘を通じてしか、本当のことには近づけない)

もう一つの、第四の輪
エディプス・コンプレックスという心的現実により、世界の崩壊をつなぎとめる。

ラカン「父の名のはたらきが主体を命名し、命名することが症状を固定する」
精神病的な傾向を持つ者の場合、「父の名の排除」のため、個人的な妄想などで第四の輪の役割を果たすものを作り出す必要が出てくる。
Ex。ジョイス象徴界現実界が直接からまりあう)、フランシス・ベーコン、リンチなどの作品 →「文脈病」


18転移
プラトン「饗宴」 アンドロギュノス 愛の起源

転移 分析に対する抵抗を生み出す
それを適切な解釈によって乗り越える必要がある。

分析中に芽生えた転移性感情の起源をしっかりと解釈しないと、「転移性治癒」で問題が解決したと思い込んでしまったり、分析家自身がが逆転移に気づかず治療が失敗したりする。 ex フロイト 症例ドラ

人は万能ではなく、転移から逃れられないが、その転移こそが治療の必要条件である。
転移、という限界設定を導入することで治療行為が、常に謙虚さを要求される倫理的営みになりうる。 ex一方ユングは万能感に無頓着に浸る傾向が強く、患者とも平気で恋愛関係に。  カルト化に対する防止弁としての転移


19転移2
ラカンによる転移解釈は、関係性のダイナミズムを重視するから、単なる意味論を超えて、技法論として有意義なものとなる

転移をよく知るためには、あらかじめ転移が起こっている必要あり
ラ「転移がリアリティを生み出す」
「転移の転移は存在しない」→ 精神分析がシステム論ともっとも対立する部分。階層関係抜きのシステム論は、APなどの一部の例外を除いて存在しない。

cfペンローズ「皇帝の新しい心」 無意識にはアルゴリズムがあるが、意識にはない
→ こころの非階層性

教育
人が人を変えるようにみえるのは、変わりたい人間と変えたい人間がたまたま運良く出会った時くらいのものだ。
「発見を助ける」ってことは、発見したいという欲望、つまり「知への欲望」を転移を通じて伝えることに他ならない

「こころ」
いま精神分析を語ることに意味があるとすれば、それは第一に「こころと情報は対立する」ということをはっきり主張するため

他の生物と共存をはかるためにも、人間は知性を犠牲にせずに、ある種の愚かさを手に入れる必要があった。それが「こころ」という、いっけんとても不便な贈り物だったのじゃないだろうか。

もし非階層的で不合理な動きを持つ「こころ」がなかったら、僕らの脳と脳は互いに理解しすぎてしまうだろう。

人間はその「こころ」が持つ愚鈍さゆえに転移しあい、関係しあい、つまり愛し合うことができるのかもしれない。