フレデリック・ジェイムソン ポストモダニズムと消費社会

ハル・フォスター編集「反美学」より。

現代文学がきわめて個人的で断片的なものになってしまったこと―文学が互いに異なった、個人的スタイルと癖の強い文体の大群へと拡散してしまったこと―は、社会生活全体におけるより深い、そしてより一般的な流れの予微なのである。(略)つまり、偉大なモダニズムのスタイルが登場してから何十年かの間に、社会それ自体が同じような仕方で断片化しはじめ、各集団がそれぞれ独自の奇妙な固有言語を話すようになり、各職業に固有のコードやイデオレクトが発達し、そしてついには、各個人がほかのあらゆる人から分離された、言語的な孤島と化してきたと考えてみるのである。けれどもそうなると、そうした固有言語や独特のスタイルをからかうことのできるような言語的な規範が存在するという可能性自体がなくなってしまい、われわれにはただ、スタイルの多様性と異質性しか残されないことになってしまうのである。
ここにおいて、パスティシュが登場し、それとともにパロディは不可能になってしまう。パスティシュとは、確かにパロディと同様に、特異なあるいはユニークなスタイルを模倣するものであり、文体という仮面をかぶって、死せる言語で語ることである。しかし、パスティシュとはそうした物真似を中立的な立場で実践することなのであり、パロディのもっていたような秘められた動機、つまり諧謔的な刺激や、嘲笑や、模倣されるものがそれに比較して滑稽に見えるようなノーマル(傍点原文)な何かが存在するという気分を、もってはいないのである。パスティシュとは無表情なパロディ、つまりユーモアのセンスを失ったパロディなのである。パロディがウェイン・ブースによって、たとえば一八世紀の、安定した滑稽なアイロニーと呼ばれたものであるとするなら、パスティシュとは一つの奇妙な実践、無表情なアイロニーの現代的な実践ということになろう。(205―206)


このパロディからパスティシュ(模作)へ、という流れは大事だと思う。cf.ウェルベックある島の可能性


かれら(古典的モダニズム作家)は、すでに発明しつくしたのである。残っているのは限られた組み合わせだけである。(中略)
ここから、ふたたびパスティシュが登場することになるのである。スタイルの革新がもはや不可能になってしまった世界では、残されているのは死せるスタイルを真似ること、空想上の美術館の中に陳列されたスタイルの仮面を通し、その声を借りて話すことに尽きるからである。しかしこのことは、現代の、すなわちポストモダニズムの芸術がある新しい仕方で芸術それ自身を問題にしつつあるということだ。それどころかさらに、ポストモダニズムが告げていることの一つは、芸術ならびに美的なものが失敗せざるをえず、新しいものは成功せず、過去に幽閉されるということである。
208

その例としての、ノスタルジア映画


非常に簡潔に表現されたポストモダニズムの二つの特徴(現実をイメージへと変容させること、および時間を永続的な現在の連鎖へと断片化すること)は、忘却させる、というメディアの情報的機能が発達していくプロセスとぴたり一致する。(230

ここでは、歴史感覚の喪失、という主題が共有されている。


象徴界の衰退、隠喩から換喩への移行、あたりも同様の問題系か。

結局、こういった特徴を持つポストモダニズムの芸術はどのような批判的価値をもつのか、という問いが残る。ポストモダニズムの芸術に、消費型資本主義の論理に抵抗するような側面がはたしてあるのか?


仮説
ある種の二重性を伴った、歴史感覚の再獲得が必要?
通過儀礼を仮構することで大人化