5日
朝八時から教習一時間。はじめて運転をほめられ驚く。帰って昼までだらだら。睡眠不足からくる頭痛により何も手につかず。昼餉の後午睡。つい二時間近く寝てしまい、待ち合わせに遅刻。夕方準備を終え青梅へ。駅近郊を散歩する予定だったが、悪天候のため断念。友人宅で六時ごろからちびちび飲む。自家製の干し肉を試食させてもらったが、どれも実に美味。肉を肴にビールを飲みつつ大恐慌の話など。近い将来ドルが紙切れになって貨幣経済が崩壊、金を持ってる奴が戦時中の闇屋ばりに得をする、といった陰謀史観を交えた妄言で盛り上がる。夜からは、新たに二人合流、五人で鍋。手相や耳相における淫乱の線の見分け方、の話をきっかけに、寝るまでひたすら淫乱という単語ばかりを皆で発し続けた。明日に備え早めにお開き、就寝。


6日
七時半ごろ起きて、朝食。米、納豆、味噌汁、蓮根、焼き鯖、という純和食。九時前に出発。一人帰宅、四人で御岳へ。現地で新たに三人と合流。七人で霊山である、御岳山登頂。それほど高い山ではなかったので、ゆっくり登ったものの、二時間強で頂上まで到着。登山道も綺麗に舗装されており、スニーカーでも楽に登ることができた。頂上の、開けた眺望の店にて、昼食。とろろ蕎麦を食した。食後、御岳神社参拝。朝から鼻がつまっており、ティッシュが手放せない感じだったのが、気づくとなんともなくなっていた。単純に山の空気が良かったことが原因だとは思うが、ひょっとすると霊山の力によるものか、などとアホな事を考えてしまうほどに具合がよくなったのには驚いた。

予定がつまっていた二人で、一行と別れ急ぎ気味で下山。下山は普段使わない筋肉を使うため、体に普段かからない負荷がかかって面白い。尻の筋肉や、膝やすねの脇の筋肉を中心に体重を支えるので、当然のようにそのあたりが筋肉痛に。一旦帰宅、入浴、着替えをすませ表参道へ。ゼミのOB会に参加。二次会も含め、わりと多くの人と話した気がする。同期の何人かと久々に長話できたのが楽しかった。仕事が忙しい人と暇な人の落差が思った以上に激しくて驚いた。間違って大手の出版社に受かってしまっていたら、すぐ辞めてしまう展開も十分にあったかも、などと無意味な想像を弄んだりした。

二次会がはけた後は、別の友人と合流して、神宮前へ。かなり年上の友人が開いた店のオープニングへ。憧れの大物が来場していたものの、話しかけられる雰囲気ではなかったため、コンタクトは取れず。まあまだまだ修行が足りんということか。個人的な印象としては、80年代的な混沌とした盛り上がりを一方では感じたものの、来場者の平均年齢や、全体の雰囲気からは、どこか同窓会的な虚しさもただよっていたように見えて、複雑な感じだった。帰りに寄った松屋で、同行した友人と長話。草を栽培して捕まった早稲田生がマイナースレットのTシャツを着ていた、というくだらない話から、糞真面目な話まで。彼とは、お互いに根本的に相容れない部分があるものの、ある程度共感することも出来る、という、ちょうどいい距離感があるので、話し相手として実に刺激的。朝帰って寝た。


7日
二時半ごろ起きる。昨日登山、立食パーティー、DJイベントで一日ほぼ立ちっ放しだったこともあり、当然のように激しい筋肉痛に襲われる。ここ数日の睡眠不足もあり、起きてもまるで疲労感が抜けていない感じ。夕方図書館に延滞資料を返しに行き、帰りに本屋で鈴木先生の最新刊を購入。

宮台先生の映画評の新刊を立ち読み。序文と韓国映画のところとメルギブソン「パッション」ところ。序文ではユング占星術について書いた、鏡リュウジの本に寄せた自身の解説文を引いて、意味論的解釈という、連載における自己の立ち位置を確認していた。これは意味論を超えた技法的解釈を目指す、精神分析的な解釈とは対立する見方、ということでよいのだろうか。
パッション評は、ほとんどキリスト教論になっていた。聖書の中で、「パッション」において扱われている部分の詳細を分析するだけにとどまらず、なぜそういった主題を扱った作品が今になってヒットしたか、という問題まで突っ込んだほうが明らかに社会学的に見て面白いような気がしたんだが、どうなんだろう。たしか、プロテスタントを中心とする福音主義者たちが、なぜかこぞってこの映画を絶賛した、という奇妙な事実があったはず。あれ、偶像崇拝してもいいんすか?という部分をどう捉えるか。
韓国映画について論じている部分が、明らかに最も切れがあった。これは自身もポン・ジュノの発言などを引いて確認していた通り、現在の韓国社会の状況が、日本で言う六十年代後半に似た、激動の時期にあるからだろう。彼が青春時代に熱中した若松映画などに似た活気が、ポン・ジュノキム・ギドクの作品から感じられるのは確か。

帰ってHD整理。J最終節のニュース、お笑いなどをチェック。レッズが心配。
深夜、「鈴木先生」を読んで寝た。人格とパラノイアは同じものである、というラカン先生の主張がまさに当てはまってしまいそうな、ギリギリのところで、現代の教育者が持ちうる倫理感について思考し続ける、作者の試みは、なんとしても支持したい。最新巻も、まあこんなに論理的にしゃべる中学生がたくさんいるクラスなんかあるわけないし、あったら恐いという感じで、子供達の発言が徐々に現実から大きくかけ離れていっているような気はするが、どうせなら、このまま行くところまで行ってしまってほしい。


八日
久々に十時間以上たっぷりと寝て、三時前に起床。ある程度疲れも取れて、スッキリした感じ。しかし寝起きでぼーっとしているうちに授業に出そびれてしまい、結局夕食まで何もせず呆けていた。食後、自転車で近くのファミレスへ。発表準備のため、「ラカン精神分析」、「不可能性の時代」をざっと読み直す。途中、ファミレス難民といった感じの困ったおじさんが横の席で爆睡しだし、店長に起こされてしぶしぶ退店するのを目撃して、妙な気分に。先日BIG ISSUEで見た、「深夜二時 寒さしのぎに 歩いてる」というペーソス満点の一句を思い出したところで、二時ごろ帰宅。北区後はひたすらネットで卒論関係の資料集め。自分と非常に似た関心を持った外人のブログを見つけてびっくりしたり。例によって、翻訳こんにゃくが欲しくなった。