チベットのモーツァルト 中沢新一

リズムに合わせて自由自在に楽器を奏でるかのように放屁する、「曲屁」と呼ばれる江戸時代の見世物について記号論を用いて分析した、「視覚のカタストロフ」が素晴らしい。違う意味で。

中沢氏によれば、曲屁のほんとうの面白さはスカトロ的なものではなく、記号論的転倒にあるらしい。
フロイトの言うところの「肛門エロティシズム」が再活性化されるばかりか、言語構造を媒介にすることなく、肛門によって昇華されている。そこが魅力なんだそうだ。

・・・って言うけどさ、屁だよ、屁。

この文章は、もともと人類学のシンポジウムでの発表原稿だったのだが、これを現場で聴いていた人が、どのような態度をとっていたのか、非常に気になるところだ。

全員がしかつめらしい顔で、黙って聴いてたとしたら、笑えるなあ。

一方では、意味づけや解釈を必要以上に加えることに対して批判的な意見を表明しつつも、たまについうっかりこういうことをしてしまうのが、学者の性というか、なんというか。

結局、密教の行者にならずに学者やってる時点で、本当のところは、説明とか解釈とかしたがるタイプの人だから、しょうがないんだろうけど、屁はやりすぎだよね。さすがに。

「ヌーベル・ブッディスト」

柄谷行人が仏教を、すこし早急に「かたをつけてしまいすぎる」として批判したことに対する中沢の考え。

「それはおそらく彼が、絶え間ない自己差異化の状態にあるブーツストラップ的宇宙感覚をもつこともなく、巨大な多様体に踏み込んでいけるほど強力な精神を持ちあわせてもいない人々が、仏教思想を自明のものとしさえすれば、言説の無根拠性についていくらでも技術化した言葉を吐くことができ(誰でもできる脱構築)、それによって西欧知をのり越えたなどという安易な発想が横行する事態を苦々しく思っているためである。」p310

これは自分にも少なからず当てはまることに違いないので、自戒の念を込めて書き留めておきたい。ただ、もちろん彼等が非常に頭のいい人間であることはわかるが、ずいぶん偉そうな言い方をするもんだ、とは思う。まあどうでもいいが。