「嗤い」と「笑い」

モンティパイソンを観ていて一つ引っかかったのが、やや「嗤い」の要素を強く感じることが多かった点である。いかにもひねくれたインテリといった感じの、大衆を馬鹿にした態度には、ある程度の共感を感じる一方で、なんとなく不快な気持ちを感じもした。

ここ五、六年間、普段周囲の人間を見下して嗤うことで、快適に日々の生活を送れる程度の自尊心を担保してきたような、そんな気がする。そのおかげで実存的な悩みに直面して精神的に不安定になることはそれほどなかったと言っていい。たしかに、教養で武装して無学な人間を嗤えば、ある程度の自尊心は得ることが出来る。それは間違いない。ただ下ばかり見ているということは、同時に向上心を失うということでもある。

悩むことがなくなった代わりに、ある意味小さくまとまりつつある自分を、最近非常に強く感じるようになった。今のままではダメだという強い気持ち、これがなくなってしまっていたのだと思う。

「嗤い」はいらない。もっと「笑い」を。ようやく本気でそう思うことが出来つつある。やはり、何事においても上から見る目線というのは、何も生み出さないものだと思う。もちろん「毒」というのは笑いにおいて必ず必要になってくるのだが。シニカルすぎる「嗤い」になってしまわない程度のブラックユーモア、というのがバランスがとれていて理想的。今の自分には。結局なんだかんだでヴォネガットに戻ってきてしまったのかもしれない。

とりあえず、これからしばらくは落語を集中的に聴いていこうと思う。