中島らも 空からぎろちん

エッセイ集。適当に図書館で借りてみた。
彼の本はなぜかいままで手に取ったことがなく、はじめて読んだ本である。
あまり力を入れずに書いても、平均して一定以上のレベルのものが書ける数少ない人間の中の一人であるように思う。自分が知っている範囲では、宮沢章夫と双璧をなす存在のような気がする。そのものズバリ、「私の文章の書き方」というエッセイによれば、氏は、一遍の文章のはじめと終わり近くに二つ面白いフックを用意することを心がけているという。(所謂漫才における「つかみ」と落語における「さげ」)これはおそらく彼のコピーライターとしての経験も大きく影響した考え方であろう。雑誌掲載のエッセイ、広告、どちらもまず「つかみ」がおもしろくなければ全体に目を向けさせることすら出来ない。広告コンペなどで鍛えられるうちに、「つかみ」の重要性を身に沁みて感じることになったのだろう。
エッセイの頻出テーマとしては、仕事関係、酒、プロレス、笑いなどがあった。どうやら彼はUWFにかなり大きな夢を見ていたようだ。そのへんは前田とUについての最近の調査からも納得がいくところ。あと、最も興味を引かれたのはやはり笑いの構造分析をしているパート。「まねの話」は特におもしろかった。彼は笑いを優越感情の表現、あるいは劣者への差別であると定義している。引用してみよう。

笑いにたずさわる職業をしていると、どうしても折にふれて「笑いの本質」ということについて考えてしまう。その結果導き出される答えというのはあまり晴れがましいものではない。「笑いはつまるところ差別だ」というのがその答えである。(中略)愚かなもの、弱いもの、醜いもの、悲惨な目にあっているもの、それら自分より劣位にあるものに対して起こるのが笑いの感情である。当事者にとっては悲劇であることを、少し離れたところから第三者的に見ることで、悲劇は喜劇に転身する。(中略)笑いが起こるのは必ず自分が「他者」である場合であり、他者である自分は「すべって転んだりしない安全な自分」である。優位にあって他者だからこそ「すべって転んだみっともないおじさん」を笑えるのである。

ここには一つの真理が含まれているように思う。第三者的視点の重要性なんかは今まであまり考えたことがなかったし、ハッとさせられた。ただ自分としてはこの意見に諸手を挙げて完全に賛成、というわけでもない。
以前笑いと嗤いの区別について考えたことがあったが、ここで問題となっているのは、あくまでも「嗤い」の領域であるような気がするからである。このへんはもう少しよく考えていきたい。今後も。

あと笑いの手法を、対象を写実し写実しぬいたあげく、全く違うものを作り上げるスーパーリアリズムと、一つのものに対して、それに一番似つかわしくないものをもってくるシュールレアリスムの二つに分けて説明していたところも、参考になった。前者には例えばモノマネとかも入ってくる。本質だけを抽出し誇張して見せる、っていう。前者を所謂「楽しい」笑い、後者を「おもしろい」笑いと言うことができるかもしれん、ある程度は。