リチャード・ドーキンス 利己的な遺伝子

十章までの議論は、一言で言ってしまえば「動物やわれわれ人間は、自らの遺伝子を後の世代に少しでも多く残すために生きる生存機械である」という仮説を手を変え品を変え、様々な視点から証明しようとしているもの、と要約できる。
主に用いられているのは、ゲーム理論とのアナロジーを用いて、動物の行動を、それぞれ遺伝子にとってどれだけの利益があるか、と言う観点から点数化して分析した、ジョン・メイナード・スミスのESS理論。この理論を用いて、異種間での攻撃行動や、同種間における親子関係や異性関係における最適戦略を分析しているくだりは説得力十分、かつ笑える。
特に男女のせめぎあいの部分なんか最高。子供を産むのは女性なので、産まれるまでの段階で男性より子供のために高いコストをかけざるを得ない。だから女性は誠実な男性を求める。一方男は一旦孕ませたら他の女性と新たな子供を作ったほうが、コストをかけずに自分の遺伝子を多く残すことができるので有利。男のほうが浮気をすることが多く、女はなかなか男に身体を許さないことが多いのはこのため云々。あとは卵子精子の大きさの違いから性差が生まれてくる云々の話もなかなか刺激的だった。
十章では社会性昆虫における無性ワーカーの分析から、それらの昆虫のコロニーで見られる互恵的利他主義について説明している。
十一章のミーム論からは楽観的な調子を帯びてくる。結論部においては、文化的自己複製子とでも言うべきミームの存在によって、人間だけが唯一利己的遺伝子に反抗できるものである、とまで言っている。
続く十二章は、ゲーム理論における所謂「囚人のジレンマ」に関する考察。「反復囚人のジレンマ」ゲームにおけるESSは「やられたらやり返す」戦略だった、という結論は意外だった。ある種の「寛容」な精神によって、ノンゼロサムゲームに持ち込むことこそが、遺伝子レベルでも最適な戦略となる場合もある、という話。この辺の話は、それこそ外交問題なんかと絡んでくるような気が。ラストのチスイコウモリのエピソードはさらに楽観的。遺伝子レベルでの贈与もありえるかも、っていう。
ラスト十三章は本書全体の議論からはやや離れ、「延長された表現系」の要約。
自己複製子とヴィークルを分けて考えることで議論がすっきりするという話。生物個体がなぜ発生したのか、というところまでさかのぼった議論はべらぼうにおもしろかったが、完全には理解できず。またそのうち読まんと。


この本の議論を前提とした贈与論について考えてみたい。チスイコウモリの件はあるにしても、やはり遺伝子レベルとミームレベルでの淘汰はそれぞれ峻別して考えないといけないだろう。
実現可能かは別として、理想論に陥らない贈与論について考えることは、ミームレベルで「気のいいやつが勝つ」状況にいかに持って行くか、と言う問題に収斂してくるはずだが、そこでまず前提として遺伝子レベルでの問題が出てくる。
ここを無視したボランティアに対して、なんとも言いがたい不快感が生まれてくるわけである。「僕はボランティアをやると、アイデンティティーの確保の助けになるし、親切をしているところを人に見られるといい気分になってドーパミンが多量に分泌されるから、やってるんです。」と堂々と宣言できなくてはいけない。ボランティアをやるんだったら。