オースター 鍵のかかった部屋

所謂ニューヨーク三部作の最後を飾る作品。
例によって書くことや読むことにまつわる思索を含みつつも、ラディカルさとは無縁の物語として成立していた。ちょいメタ。

三部作はどれも共通して探偵小説の枠組みを用いつつも、探偵小説に必要不可欠な要素を物語に登場させないことで、奇妙な魅力を生んでいるように見える。
事件は特に起きず、探す対象へと至るまでの過程に明確な論理もない。相手を追いかけている内に、もしかすると自分が追いかけられているのではないかという疑念を持つようになる。これは最終的に探偵と犯人の区別がつかなくなるという事態を招く。

この探偵小説の枠組みのズラし方は、ポーに由来し、乱歩、石井輝男へと引き継がれている流れとも関係してくるはず。煽情小説を換骨奪胎してうんぬん、という話は、おそらく石井作品における大衆性の問題につながってくる。
探偵ものというジャンルについてはもう少し色々考えてみる余地がありそうだ。

おそらくポイントになってくるのは、探偵ものというジャンルが持つ、読者や観衆を物語に引きつける力の強さだろう。

読んでいて(観ていて)先が気になる、ということが大きいのでは。
要するに、ある種の煽情性を導入することでエンターテイメント性が向上し、広い人気を得やすくなるということ。

部分的に形式だけを導入するわけだから、多少の縛りはありながらも、上手くズラすことでいくらでも前衛的な作品に仕上げられる。そして大衆向けとは言えない内容でもいくらかの人気が得られる、と言う感じ。これはポーやオースターの場合。

石井輝男の場合は話が違う。彼の内容が空っぽな作品は、とりあえず探偵ものにしちゃえば多少は客を惹きつけられるだろう、という発想でつくってるだけのような気が。だから推理に論理が欠片もなかったりするんだろう。