神代辰己 青春の蹉跌

人生のままならさがここまで凝縮されている映画は初めて観たかもしれない。
理想と現実の間で揺れる若者を描いた物語など、それこそ星の数ほどあるに違いないが、ここまで心に響く作品はそうそうない。

以下あらすじ。
高校時代学生運動に熱中していた主人公(ショーケン)は、大学ではアメフトに熱中。しかし卒業を控え、スポーツで飯が食えるはずもないので、仕方なく司法試験の勉強に集中。アメフトを諦める。
理想と現実とのせめぎ合いは将来の進路問題のみにとどまらず、女性問題においても似たような構図がある。良家の令嬢との半ば金目当ての交流がある一方で、家庭教師先の年下の女性(桃井かおり)と恋に落ちてしまう。
なんとか司法試験には合格するものの、女性関係は混迷を極める。令嬢からの婚約の誘いを断りきれず、彼女との結婚を承諾した矢先に、桃井かおり扮する年下女性が、既に堕胎したとばかり思っていた子供を堕ろしていなかったことが発覚。すでに堕胎は不可能な状態で、どうすることもできなくなったショーケンは、桃井とはじめてデートした雪山へと二人旅立つ。そこで心中を図ろうとする桃井を止める際、偶然桃井が死んでしまう。やむなく一人帰京したショーケンは、令嬢との結婚を承諾、親の財産によって大学に残留するも、再開したアメフトの試合前に、彼の目の前に警察が現れる。警察を振り切り試合に出場、ボールへと飛び込んでいくところで映画は終わる。

人生には常に説明のつかない不条理がつきまとう。理想を追って成功する人間もいなくはないが、ほとんどの人間は、どこかでなんらかの形で、嫌でも現実との折り合いをつけねばならない。そうでなければ発狂するか死ぬかしかない。そこまでの覚悟がある人間はそうそういない。
令嬢の父親が、大きく開かせたショーケンの指の間にナイフを突き立てる遊びをしながら、「こんなものは勇気なぞなくても慣れれば誰でもできるようになる。現実の強さとはこういうものだ。君も早く現実を直視したまえ。」と言って彼を諭すシーンがある。
確かに、時間が経てば、人間は何に対しても良かれ悪しかれ慣れていくに違いない。しかし、そこで、はいそうですか、とすぐに現実を受け入れることが出来ないのが若者というものである。
この映画が凡百の青春映画と比べて圧倒的に心に響いたのはなぜなのだろうか。おそらくその最も大きな理由は、理想と現実の対立軸が将来の問題と女性問題、二つあり、そのいずれもに対して、どうすることも出来ない状況が見事に描かれていることだろう。まあ単に今の自分の現状と照らして考えて必要以上に感情移入してしまっているだけのような気もするが。あとは、迫ってくる現実に対して対応せざるを得ないことへの苛立ちを、見事な演技で表現しているショーケンと桃井の存在感か。雪のシーンのカメラや、ショーケンのエンヤートットという歌声が随所に挟まれる演出もよかった。

関係ないが、学生運動の描写なんかを見ると、ついどうしても、生まれる時代を間違えたのではないかという気持ちが頭をよぎってしまう。
不謹慎な言い方であることを承知で書くが、9・11テロが起きた時、正直に言って、非常に興奮したことを今でもよく覚えている。当時私は高1だった。それまで政治になぞ全く関心が持てなかった私は、チョムスキー9・11本を買いに書店に走り、宮台なんぞに興味を持ち出し、テロからちょうど一年後の9月11日には、代々木公園かなんかで行なわれた平和イベントとデモ集会に参加しようとしたりまでするようになっていた。ただ、なぜかそこで初めて実際のデモを直接目にした時に、これは何か違うな、という直感が強く働いた。なんというか、これは時代遅れもいいところだな、というような感じを受けた。それ以降政治への関心は再び低下していった。最近の高円寺プレカリアートデモの情報なんかを見ても、やはり自分で参加しようとまでは思えない。どうしても。

学生運動を扱った映画や小説などを見るにつけ、所詮あんなもんは若者の苛立ちの受け皿として機能していただけにすぎなかったんだな、とは思うんだが、もし当時同時代に生きていたならば、どこかでそういった冷めた視点を持ちつつも、多少は運動にコミットしたのではないか、と思わずにはいられない。まあこんな話は全て言わずもがなの話なんだけども。
実際は苛立ちの受け皿であったにすぎないとしても、束の間の夢であったとしても、理想を燃やす対象があった時代には、やはりある種の羨ましさを感じずには入られない。