ウディ・アレン アニー・ホール
とりあえずメモ。
今まで観たウディ映画の中では明らかに最高傑作だった。
女性とのままならない関係を描いた自伝的(?)映画。
アニーに別れを切り出された際のウディの切り返し。
サメは常に前進していないと息絶えてしまうと言う。さながら今の僕達の関係は死んだサメのようなもんだ。
強烈なブラックユーモア。というか笑えない。
冒頭とラストで引用される小話も同じようなノリ。冒頭、グルーチョ・マルクスのネタ。
私は私の入会を許可するようなクラブには入りたくない。
私の女性に対する感覚もこれと同じです、と。この話はゲーデルの不完全性定理の説明の例にも使われていたが、そんなことはどうでもいい。このネタも笑えない。
ラストの小話。
精神科医に相談に来た男が、「弟は頭がおかしいんです。自分のことを鶏だなんて言うんですよ。」答えて医者が「じゃあうちに連れてきなさい。」男が「無理です。卵は必要なので。」
結局卵が欲しいばっかりに、全く理性で割り切れない不条理に満ちているにもかかわらず、異性を求めるという、見事なたとえ話。笑えません。
アニーと別れた場面をハッピーエンドに転換させたものが、彼のデビュー作だった、というエピソードには色々と考えさせられた。この部分が実話ベースかどうかなど、どうでもいい。やはりトラウマ体験を昇華するための創作は、強い念がこもってる分、のほほんとしてる奴の作品とは、明らかに違うのだ。
アニーと会話しつつ相手の真意を探りあうところなんかも、良く出来ていた。
斜に構えて周囲の人間を嗤ってなんとか正気を保ってる、というのは何とも。というかそれ以上にひどい。カウンセリング通い、って設定だし。
映画館で後に並んでるおっさんが講釈たれはじめて、イライラ、ってのはよくあるなー、と。おっさんのマクルーハン論が間違ってることを証明するために、マクルーハン本人に説教してもらう、というシーンで本人が出ていたのは驚いた。
そういう部分に反応してしまうのは情緒的すぎる気がしなくもないが、撮影当時私生活でもパートナー同士だったウディとダイアン・キートンが、こういう内容の映画を撮った後、公開時には別れていた、というエピソードも、映画のペーソスを一割増しぐらいで感じさせてくれるアングルだと思う。
周囲を嗤うことで自尊心を確保するしかない自分の分身(自ら演じる主人公)を客観視して嗤う、という構図が彼の笑いのスタイルの根幹にあるように思う。これは深く考えると恐い結論が出そうだ。