傾聴ボランティア特集 クローズアップ現代

以前からなんとなく、聴き屋、フリーハグなどに対して、私はambivalentな感情を抱いてきた。しかし、それでもどちらかと言えば、そんなところにすがるしかないような人間を嗤って自尊心を確保しようという方向性のほうが強かったと言える。
そう言った見方が、今日たまたま傾聴ボランティアを特集する番組を見たことで、かなり変わった。
一月以上全く他人と会話をしない高齢者が増えているという。番組内での調査によれば、四千人以上とか。そんな人達の生活にある程度のハリを与えるため、彼らの話し相手となれるようなボランティアの育成が進んでいるらしい。相手を否定することなく、上手く会話を引き出すような聴き方を奨励し、ボランティアの育成を進める現場の映像が紹介されていた。そういった聴き方が、話し手に対してもたらす効果というのは、精神分析の現場における対話であるとか、カウンセリング全般なんかの効果と地続きのものだと思われる。

ここで思い出されるのは、ギャルソン大好き禿学者鷲田清一先生の著作「聴くことの力」「自分、この不思議な存在」などである。「自分〜」で繰り返し主張されていたのは、内省をいくら深めたところで、「本当の自分」などというものは発見できない。他者との関係性の中にあってのみ、他者の他者としての「自己」が見えてくる。ということである。(「聴くことの力」においてはその発想をさらに広げていった帰結として、哲学における対話の重要性を説いているのだが、とりあえずそれは置いておく。そこでは主にメルロポンティの議論が参照されていた気がするが、入門書レベルですら手を出していないので、そのへんはなんとも言えんし。)

これは逆に考えると、対話がないところでは「自己」の輪郭を上手く捉えることが、非常に難しくなるということである。たまに来るボランティアを楽しみにして、あらかじめ話のネタを準備する孤独なじいさんの映像は、見ていて寒気がしたが、それだけじいさんにとっては切実な問題だということなんだろう。

自分の聴き屋やフリーハグに対して感じる違和感というのは、配偶者が死んだ老人でもなんでもない若い人なんかが、心を裸にして対人コミュニケーションにのぞむ度胸がなくてそういうものにすがる、っていう部分に対して気持ち悪さを感じている、ということなんだろう。昔の自分を見ているような気がするのも一因か。あとは。

自分が「傾聴」と呼べるような聴き方をできているとは到底思えないが、少なくとも剥き出しで他人と向き合って、傷つけ合えるようにはなってきていると思う。コミュニケーションスキルが多少上がっていることは間違いない。大学受験前後に中島梓「コミュニケーション不全症候群」を読んで当てられていた頃が懐かしい。
つらさも、不安も、嬉しさも、あらゆる感情が以前より強く感じられるようになってきている気がする。以前読んだときいまいち響いてこなかったディック「流れよわが涙、と警官は言った」が今なら心に刺さる気がする。感情の振幅が増した、というのはもちろんいい面ばかりではないのも確かで、最近は何かに押しつぶされそうな気分に陥ることがままあるが、それでも生の実感は強く感じられる。まあそれは成長といっていいんだろう。おそらく。

この辺の感覚を上手く言い表してくれている気がしてならないのが、豊田道倫である。ポスト私小説、という名付け方はまさに言いえて妙だと思う。観念地獄を越えた、他者との剥き出しのコミュニケーションの中に、形を変えた自分探しをしていく、という方向性。
当然そこにはセックスの問題も絡んできて、そういうベクトルでいくとカン松のドキュメンタリー的手法につながる。この二人に交流がある、というのにはまさに納得。

「傾聴」という言葉に表れているような、真摯な姿勢は、トラウマの解消の問題ともつながってくる部分であるように思う。理解できずとも傾聴する、という姿勢にこそトラウマ解消への道が開けているとすると、アガンベンの脱創造による潜勢力の回復、という議論はどうなんだ、という気もしてくる。結局形を変えたデカルト的観念論への閉じこもりじゃないのか、という疑念が消せない。