ジャ・ジャンクー 一瞬の夢

長編デビュー作。映画学校の卒業制作かなんか。全員素人を使って撮影している点や、撮影時の社会情勢を反映させるため、当時の実際にあったニュースを本編に盛り込んでいたりするあたり、デビュー作からすでにドキュメンタリー的な手法が色濃く現れていると言える。
大きな変化の起きている時代と言える現代中国において、その変化を全作品を貫く重要なモチーフとして用いているジャ・ジャンクーはまさに現代中国にしか生まれ得なかった監督であると言えよう。
時計の針を逆に戻すことは出来ないということはわかっていながらも、ついそれを夢想してしまうのが人間というものである。監督は、急激な産業化によって以前の街と大きく様変わりしようとしている、変化の渦中にある地元山西省への複雑な思いと、なぜだかはわからないがうまくいかなかった女性関係へのいわく言いがたい想いとを併置して語る。この手法は「青の稲妻」「三峡好人」でも用いられていた監督お得意の手法である。そこでは、トラウマ的な側面よりは、「喪失感」がより重要なキーワードになっている気がする。手を伸ばしてももう届かないということがわかっているからこそ感じる「喪失感」。ここに彼の作品の肝があるような気がする。
ただ、そういった「喪失感」が作品全体の主要なトーンとなっている割には、暗さや湿っぽさは、さほど感じられない。そこがこの監督のすごいところだと思う。それはおそらく、ちょっとしたユーモアや、ディテールの良さによるものだろう。
例えば、彼の作品では、どの作品でもこれでもかというぐらい登場人物達は皆タバコを吸う。そして誰もが知人と会うと自らのタバコを譲る。たとえ、毎日自分が吸うだけのタバコも満足に買えないような貧しさであったとしても。こういった部分にこそ、一切の偽善性を越えた贈与があるように思える。だから観ていて胸を打たれる。
カラオケやライヴなど、歌を唄うシーンも必ずと言っていいほど出てくる。それもある程度重要なシーンで。これは監督の趣味なんだろうが、歌のシーンを観ていると、音楽が日々の生活を元気づける効果を持っていることへの、監督の想いがよく伝わってくる。
携帯やテレビなど、テクノロジーの発達によって生まれてきた新しいメディアが人々にどういった影響を与えているか、というのも一貫して興味があるようだ。インタビュー記事で監督自身が語っていたが、ウーがメディアの力を借りず、直に会って話をつけようとする、生身でぶつかろうとする、という部分を、結婚したかつての友人やポケベルで別れを告げる女と対比させて描いたようだ。
あとは、長廻しのロングショットを多用しているのも一つの特徴か。保坂和志のデビュー作「プレーンソング」にある発言「何も起こらないことを何も起こらないままに記録することが出来る」からビデオは小説より優れている、というような会話が思い起こされる。何をしているわけでもないのだが、彼の映画、あとはアピチャッポンなんかの作品では、ロングショットのシーンでさりげなくフレームの中に映っている人々が、非常に生き生きとして感じられる。街で麻雀やビリヤードしてる人たちとか、肉体労働してる人たちなんかが。ある種のドキュメンタリー的な要素とも相まって、そのあたり、まさに映画でしか表現できないような部分に踏み込むことができているように思う。