ウェス・アンダーソン ライフ・アクアティック

かつてカート・ヴォネガットは長編「スラップスティック」において、「拡大家族」なる概念を作品の中心的テーマに選んだ。一夫一妻、家父長制的な所謂従来の「家族」概念が更新を迫られている現在において、他者とのゆるやかな繋がりを担保する道を、彼はコミューン的な「拡大家族」に見出したのだった。ウェス・アンダーソンも、おそらくそれと似たような感覚を持ってこの作品を作り上げたのではなかろうか。

物語は、親友の敵を討つためにサメを探す、ドキュメンタリー映画撮影団の様子を追う形で進行する。団員同士の心理的すれ違いを巧みに描く手腕は見事。会話の合間に錠剤を飲む描写など、細部の演出も効果的。互いに相手の意図を探りあい疑いあう登場人物の描写は、まさに現代社会の戯画となっている。

また、敵討ちを目的とした海洋ロマンという、メルヴィルの「白鯨」を想起させる設定も大きなポイントであろう。エイハブ船長と異なり、本作のズィスー船長は一直線にサメへと向かっていくことは無い。途中団内のトラブルに見舞われる度、何度も彼は弱気になり、サメを目指すことを諦めようとする。

こういった違いもさることながら、最も重要なのはラストのサメへの対応であろう。紆余曲折あった末に彼等はようやく目当てのサメを見つけることになるのだが、もはやそのサメを殺そうとはしない。親友に加えて、新たに自分の義理の息子までもがサメによって命を失ってしまったにも関わらず。それどころか、むしろ団員達はサメの美しさに心打たれ、圧倒されることで、不思議な団結心を手にすることとなる。シガーロスの美しい曲がバックに流れる中、団員達が船長の肩に手を伸ばすシーンは感動的であったが、このシーンが意味するものは一体何なのか、よくよく考えてみるとあまり感動なぞしていられない気になってくる。結局のところこの締め方は、「マグノリア」における蛙と同様、超越性を持った対象として、サメを描いているようにしか感じられないからである。それは形を変えたキリスト教的精神の発露でしかないのではないか、という疑念を消し去ることはどうも出来そうも無い。「白鯨」におけるエイハブがグノーシス的価値観のもと、キリスト教的な思想を否定する方向に突き進んでいったのと比べてみると、対照的なのでは。
トラウマを解消しようとする方向性自体を否定し、超越的、聖的なものへの感染を通して、タネがばれた手品をあえて見る領域(「でも、やるんだよ」的なアーバン・ブルーズの領域)に達しようとする方向にこそ希望を見出している、ということなのだとしたら新しいのかもしれないが、いずれにしても微妙なところだ。これほど屈折させないと、ベタな浪花節はもはや語れない、というのもなんだかな、という感じ。

ただ、もちろん全体の出来は素晴らしいし、監督の過去作品同様、一旦解体されてしまった関係性を再生する方向に持っていく際の流れは、あざとさをまるで感じさせないし、良質の浪花節的作品として、評価できるとは思う。

追記
レビュー適当に見て納得した部分
「つくりもの」の強調にはおそらくメッセージが込められている、ということ。ラストのサメも陳腐なCGだし、他にも似たような生物がいくつか出てくるし。全体的なユルさとも繋がってくるし、偽物にリアルを見出す、ってあたりが逆説的だったり。
ギャグはそんなに趣味じゃなかった。他作品同様。まあ嫌いじゃないけど、って程度。