全体性という幻想

BRUTAS茂木健一郎特集号を読んだ。前々から感じていたことではあったが、不可能とは知りつつもある種の全体性を志向する彼のような学者が、アカデミズムの世界ではなかなか受け入れられない、と言う問題についてあらためて思うところがあった。

おそらく、我々が知をロマン主義的に追求しようとすると、茂木先生や中沢先生、あるいは内田樹のような方向性に行くしかなくなる。文献学的な地味な研究活動に終始するのではなく、時にダイナミックに諸領域を横断し、専門から逸脱するような形で、自らの存在を賭けて知を追求しようとすれば、しかし、自ずと専門の業界からは白い目で見られることにもなる。このジレンマを越えるにはどうすればよいのか。

上に挙げた三人はかなりの独創性とセンスがあるので、ある種毒にも薬にもならないような雑文を書き散らしたエッセイ集やら、ブログ、対談などの活動でもなんとかやっていくことができている。ただ問題なのは、さしてセンスも知識量もない若造が、小林秀雄吉本隆明以来の伝統に連なるような、彼らのロマン主義的言説に毒されて、知的器用貧乏に陥りニッチもサッチもいかなくなった場合であろう。まあ自分なんだが。どうしたもんだろか。

領域横断的、学際的な方向性を突き詰めていくと、どうしてもある種の全体性を志向してしまうことは避けられない。すでにカミュニーチェによって根本的に否定されているにもかかわらず、ついつい包括的な議論を組み立てたくなってしまう、というのが彼等の性なんだろう。そう考えると、中沢先生や茂木先生がスピリチュアルブームやらオカルト系と妙に親和性が高いのも、納得がいく。

アカデミズムの側から彼等を見た場合の批判は、毒にも薬にもならないという部分に集中してくるだろう。確かに茂木、内田のブログは時たまひどいことが書いてあったりするし、対談も含めて厳密な議論になっていないこともままあるが、そういう曖昧な部分が、ロマン主義の受け皿として機能している部分でもあるわけで、彼等以上に知的な刺激を与えてくれるような議論をできもしない頭の固いセンセイ方がそういう批判をする、ってのはどうしようもないな、と思う。そんなんだから皆中沢とか茂木に行くんだよ、って話。

メモ
あと茂木大竹対談で話題に上ってたが、ある程度強い負の感情と創作意欲(正の感情)はセットになっている、というような話や、そこからつなげてそういうトラウマ的なものを鎮めるためには創作なりの行為をし続けなくてはならなくて、その「続ける」というところに重要性がある、というようなことを、大竹の多作ぶりと絡めて茂木が誉めていた。
常にカオス的、トラウマ的なもんと向かい合いつづけることでそっから何かが生まれてくるのかもしれない。まあ参考程度には記憶しておきたい話だった。