中原昌也 名もなき孤児たちの墓

短編に関してはまあお得意パターンの変奏曲の域を出ない感じだったが、いくつか面白いところもあった。ページ稼ぎなのかもしれないが、「かつて作家たちは文字を使って表現していたがそれはもう古く、現在ではカメラを手に女体を使って表現する新しい時代の幕開けなのだ。小難しくて気取った文字の連なりよりも、同じ金を出すのならこちらの方がよほど心が豊かになれるし、興奮できる。こういった女性の裸体図版の書籍を大量にコレクションして、いつか人に自慢してみたいものだ。」という記述が二つの短編で完全にそのまま反復して出てきたのは笑えた。この反復によって笑いを生むパターンは「血を吸う巨乳ロボット」でも「女を監禁して半身不随になるまで暴力を加える」という文がひたすら繰り返し登場する、という方法で用いられていた。あとは時折わざとらしい文学的な表現で異化効果を狙っているところもよかった。例によって「ドキュメント 授乳」など、B級映画的なユーモアも効いていた。表題作「名もなき孤児たちの墓」は、たまにやる途中でちゃぶ台返しして自己言及に持っていく、というパターンだったが、いくつかおもしろい部分があった。引用しておく。

どうせ書かねばならぬのならば、誰からも興味を持たれない、道の脇にある雑草のようなものを書きたいものだ。雑草は花のように、道を行く人々の足を止めて心を休ませるものではない。あってもなくてもどうでもいいものだ。しかし、たかが雑草といえども、それは確実に生きているし、さしたる理由もなく毟り取られるのを拒む権利だって彼らにはあるような気がしてくる。

「言葉を持たぬ意志」のようなものを、勝手に生い茂る雑草たちから感じて、何だか嫌な気分になることもある。〜それとよく似て、自分の書いた原稿の活字の一つ一つが、誰の意向とも関係なく何かを伝えようとして、必死にもがいているような気がしてくる。それが本当に気持ち悪い。僕本人はまったく読者に伝えたいことなど持ってはいないし、見ず知らずの人と何かを共有する気分に浸るなど、どうしても薄ら寒いことに思えてならない。

何の目的もなく垂れ流される孤児のような言葉たちに、僕がしてやれる唯一の優しさは、彼らの持っている意味を、可能な限り軽くしてやることだけだ。
しかしそれは、まだ名前を持っていない存在なのだから堕胎しても悲しくないだろう、というのと同じ考えのような気もしてきたのだが。


後半部の中篇、「点滅・・・」は今までの彼の作品の中では最高傑作なんじゃないかと思う。

まず、文芸というジャンルの現状や、そこで不毛な活動を続けざるを得ない自己の状況への思いが反映された数々のメタファーが登場する。そこで行き詰って自己言及的なパートに移行するが、最後は再び比喩的表現に戻る。装置に指令をプログラミングすることで「物語」が生産される、というのはベタではあるがいい比喩。断片をサンプリングして「不安なオブジェ」を作り上げるという自己のスタイルへの批判にもなっているし。
心温まるエピソードを入力したところ機械が発光、一瞬観客との奇跡的な一体感が現出したかに思ったところで、爆発。というオチもよくはまっていた。ただ、やはり似たパターンになってしまうのは避けられない、というところもあるような気はする。今の作風で通すのはキツいと思うんだが、どうなんだろう。