深沢七郎 笛吹川

誰かが言ってるかもしれないが、ちょっと「百年の孤独」に似ているところがあるように思った。笛吹川は架空の土地ではないし、「百年の孤独」のように何世代にも渡って一族の興亡を描く、という形式をとっているわけでもないが、無駄な形容を一切せず、淡々と事実の記述を積み重ねていくことで厚みを出す、という文体はまさに瓜二つ。
マルケスのおっさんのほうはセックスがらみの描写が目立つ一方、深沢の親分は日本の家族制度の特徴たる世間体意識なんかが中心になっているところは、文化の違いが反映されているように思うが、おそらく彼等二人の世界を見つめる視線、これにはある程度似通ったものがあるのではなかろうか。

登場人物の死に方やそれを見つめる周囲の描写には、深沢親分の人生観がよく出ていたように思う。死体のモノ性をやたらと強調するような描き方なんか、特に。
片目でかたわのおけいが出てくるたびに、「おけいは右手で左腕をさすりながら」、という障害の描写をしつこく入れてくるのには、笑ってしまった。

例によって要所要所で、一つ行き切ったあとの優しさが垣間見える場面があり、感動した。

全集の編集に際したコメントに、便宜上作品をエッセイと小説で2つに分けたが、厳密には彼の作品はエッセイと小説にクリアカットで分けるのは難しいものが多く含まれている、といったようなことが書かれていた。
これには納得すると同時に、ひょっとするとそれが彼の小説のオリジナリティであり、魅力の一つかもしれないと思った。
いくらウェルメイドであっても、いやむしろ良く出来ているからこそある種の胡散臭さを感じてしまい上手く入り込めない物語、そういったものに対して最近特に不感症になってきている。社会に対する何らかのメッセージ性やら、あざとい演出意図が見えるだけで、作品に対する気持ちが冷めてしまうことがままある。そんな作品に接して辟易した後は、本が読めなかったり、読んでも頭に入ってこない状態になる。そういう時にも、不思議と深沢親分の作品は読める。おそらく、映画におけるドキュメンタリー的表現の問題なんかとも絡んでくるんだろうが、一言でいうならやはり虚飾の無さ、これが魅力か。エッセイとも小説とも取れる、というのはそういう部分を指してのことだろう。
非常に強く感じられるロックンロール的なニヒリズムにも当然惹かれるんだが。