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ストア派アリストテレス・連続性の時代」

以下引用。

アリストテレスがいまだ観劇者の場から劇を考察したのに対し、マルクス・アウレリウスにとって悲劇とは即観劇の行為であり、それを物のように外側から考察する。「人は忌まわしい劇に感動する。それゆえ忌まわしい現実もまた、苦痛以上の何かを与えるはずである」。彼は転移と真実ではなく、その基盤の欲動と一次過程の側におり、快楽と嗜癖を症候とした時代、つまり現代に住んでいる。セネカストア派こそエピクロス派であると自認していた。



ストア派は「滞りのない生」としての自らの幸福の中身を記述できなかった。セネカマルクス・アウレリウスは戦争や執務に忙殺され、幸福の支点である自分の身体さえ領有せず、そのことは自らの生活と幸福についての彼らの寡黙さの口実となった。しかし例えばマルクス・アウレリウスは彼自身の症候を明確に保持しており、それは第一に彼が『自省録』を書き続けたこと、次に妻への愛である。彼は言う。「人間には人間的でないことは生じない。牝牛には牝牛に自然でないこと、葡萄には葡萄に自然でないこと、石には石に特有でないことは生じない。生じることは全て自然であり、君は不平を言うべきでない」。転移を遠ざけ、人間を客体化した彼にとって、人間の全ての愚かしさは必然的連関の中にあり、了解可能である。しかしこの文が本当に言うのは、人間も牝牛も葡萄も石も同じだという、存在への無関心と失意であり、それ以上に、そのことを牝牛や葡萄に向けてくり返し言い、反復し循環し、欲動に回帰し退行することで子供じみた復讐をなしとげる、その感覚の幸福である。
今日人々は、家族・性愛と個人的欲動対象によって、自らを何とか支える。誰もが人間主義者だが、階級・階層はますます固定し、毎晩ボルドーをあける者とスーパーマーケットのテーブルワインを飲む者は、人生で一度も出会わない。真理や善悪、自由や正義など、歴史書の言葉であり、真理の開r示、善悪の峻別は、クレオーンの法の下に生きるイスラエル人やパレスチナ自治区民にだけ約束される。外傷を共有し抑圧する者は真理の開示に出会い、正義を知るが、戦場から脱出できる者は欲動と資本主義の道を進み、真理や善など恐れるに足りない。誰もがアンティゴネーであり、彼女は死なず、先進国民として生きつづける。クレオーンの法、ソフォクレスの劇の外でアンティゴネーを祝福する、例えばラカンの唐突な、デリダの退屈愚鈍な文章は、ギリシャをこよなく愛した三〇〇余年の貧者の精神主義の、倫理的無効性と消滅を記念する。
戦場の外、連続的世界の中で、アンティゴネーは過食・拒食とアルコール依存と、転移を排した次世代の嗜癖的宗教に祝福される。アリストテレスによって開かれた現世主義の線上の一五〇〇年、セネカアウグスティヌストマス・アクィナスらは、許される飲酒の程度を哲学的議題として真剣に論じたが、この伝統は復活が望ましい。どの程度の酒、どの程度の過食、どの程度の虚言が許されるか、知者や聖職者はどの程度の労働を許容すべきか、野蛮人はどの程度人間か、等々、トマス・アクィナス的問いは、可能な去勢の様態の隠喩である。去勢は単一ではなく多様であり、各人の経済的、知的、性的資産に依存する。いずれ消滅する人類史の中の僅かな時間を、どの程度無理をせずに、どのような仕方で、どのような人々と、何を語り、食べ、見、触り、聞き、存在を受容/断念し、生きられるか。その様態は人々の利用可能な快楽の中身に依っている。世界と自分の存在の絶対性を疑わない者、存在の偶然性を知り狼狽する者、知った上でなお楽しむ者、年収一〇〇〇ドルの者、年収一〇〇万ドルの者、醜い者、美しい者、それらが住む世界は別であり、異なった善悪と法に従っており、しかも資産のある者はその違いを知りつつ、ストア派的/人間主義的穏便さにより口をつぐみ、貧者は普遍性の神話を信じ、階級制は持続する。



先進国に住む者は、一人で難民数百人を救える財力をもち、一生に四人以上の妻(夫)・愛人をもつ。言い換えれば、なし得る善を全てなすわけではなく、三人以上の愛を捨てる。現実的力、能動性の増大は、善悪の区画を曖昧にするが、それでも人々は固有の倫理をもち、それは去勢の法の内実を構成し、またそれに従い、しかしそれらは、適切な程度と滞りのなさという、ストア派的非‐表現に吸い込まれる。遂行的で言表されない法に従うことで、人々は疑似解離し、実際以上に受動化するが、人間の鏡像的同一性を信仰し法の中身を一切記述しない近代哲学の見かけ上の存続が、この非言表と怠惰の口実となる。