岡田斗司夫 いつまでもデブと思うなよ 

「ぼくたちの洗脳社会」を読んでから、立ち読みで流し読みしてみた。
「ぼく〜」を読むと、この本の終盤における、宗教がかった大げさな言い回しは、明らかに確信犯的に書かれているんだ、ということがわかる。例えば、「自由洗脳競争社会」である現代で求められる「洗脳商品」の特徴について、こんな事を書いている部分がある。

一つ目は用途が限定されていて、分かりやすいことです。
たとえば刃物より包丁、包丁よりパンきり包丁のほうが何に使うか分かりやすいわけです。同じように価値観やイメージも極端で、ある場面でしか使えないけど、その分単純で分かりやすいほうが消費しやすいといえます。
人生論より恋愛論恋愛論より失恋論失恋論より離婚女の世界観の方が、より専門化され利用しやすくなっています。
また、分かりやすいためには極論が必要です。離婚女の世界観では「離婚して初めて本当の恋愛ができるようになる。本当の男の値打ちが分かるようになる。本当の人生が歩めるようになる。離婚を経験してない人間なんて半人前よ」といった、「決めつけ」と「勢い」が必要です。この極論が問題を分かりやすくすると同時に、専門化させるわけです。

二つ目はキャラクター、つまりその価値観をだれが提唱しているかです。
中略

スカッとしたい、ほのぼのしたい、熱血したい、しんみりしたい、等等。彼らが「大切にしたい」と考えている「自分の気持ち」というのは、こういったものの総体です。

この「自分の気持ち」の奥には、全ての人間の行動原理となる不安が隠されていることは言うまでもありません。それは孤独感であったり、疎外感であったり、劣等感であったり、というったどうしようもないものです。
近代人が肉体の求める食欲とさほど関係なく、自分の好みで朝昼晩の食事を決めるように、洗脳社会の人々は毎日の生活を、そういった「自分の気持ち」つまり不安を満たすためにコーディネートします。
                                212−214


これを読めばわかるように、岡田が本書を洗脳商品として位置づけている事は間違いない。ただここで少し気になるのは、人間というもんは、自覚的にやってれば、意識の隅々まで完全にコントロール出来るもんなのか、という点だ。最近雑誌のインタビューや対談などで、電波まがいの発言を連発しているあたりを見ると、どっかでスイッチ入って帰ってこれなくなっちゃったんじゃないか、と邪推したくなってしまう。やはり。ミイラとりがミイラに。

生活を完璧にコーディネートする事で不安を完全に抑圧してしまえばそれは本人にとっては幸せといえる状態なんだろうと思うが、それが他の人にどのように映るのか、という問題はまた別にあるわけで、難しいところだ。
彼については、これからしばらく動向を見守ってから改めて判断しようと思ふ。