M・ナイト・シャマラン ヴィレッジ

とりあえず観終わった直後の印象をメモっぽく。ネタバレ。

異質な他者に対する恐怖をめぐる物語。仮想敵の異質性に強く拘るというあたり、ピューリタン時代の神権制あたりまで遡れる、伝統的なアメリカにおける恐怖のあり方を踏襲しているように感じた。

別エントリにした「恐怖・笑い・泣き」を踏まえて

悲しみに耐えるための嘘、とはアイヴィーの父が、娘に納屋を見せて、村の秘密を明かした際に使った言葉である。異質な恐怖を廃した閉空間として、ユートピア的な村を作り出すために、まさにその人間誰もが持つ恐怖という感情を利用した民話を捏造する、という複雑な構造。これは面白かった。人間は、たとえ偽物、まがいもの、キッチュな俗物であっても、それを本気で信じることができる力を持っている、それは絶対に肯定されねばならない、という彼の終始一貫した主張はこの作品からも強く感じ取れた。信じる対象の俗っぽさ、キッチュさを、B級映画的な手法で誇張してみせることで、「泣き」サイドに偏ることなく、非常に「笑える」部分を残しているところも、非常に好き。バランス感覚の良さ。

この点、不気味なもの、先の文章で書いたところの「死」に対する態度としても、極めてバランスが取れており、すごく共感できる。

このへんは、リンチ、バーセルミの比較とさらに比較すると面白そう。先に例であげたリンチは、まあ本人が完全に統合失調で、それがそのまま作品にも出てる、という話なんだろうが、マルホランド〜では路地裏の影に現れるゴリラが一体何者であったか、まるで説明はなされず、観客には恐怖だけが与えられる。一方、ドナルド・バーセルミは短編「気球」において、不気味なものの回りに言語が張り巡らされる様子それ自体を記述し、多幸症的なユーモアを生み出し、また、「雪白姫」では、リンチ作品のゴリラそっくりの、由来のわからない猿の手が郵便ポストから発見される場面があるが、そこでは、これはなんでもない、ただの猿の手だ、これに意味づけをしてはいけない、という断定、命令が繰り返される。

おそらくバーセルミの場合は、「死」の周りに言語が配置される状況をメタ的に記述する事で、その欺瞞性を明らかにしつつも、それに翻弄されるしかない人間の愚かさをユーモラスに表現したのだと思う。シャマランの本作では、やや角度が違うが、中盤すぎのアイヴィーの父によるネタばらしシーンを境に、物語の核を成していた、化け物に関する民話が偽物、嘘であることが明らかになるも、一方でそれでも化け物にアイヴィーが追われる場面では、彼女は見事なまでに恐怖に捉われている、といった演出によってバーセルミと似たような状況を表現しているように思えた。

そんなような話と関連して、この映画で最も感動させられた、つまり「泣き」方向のスイッチが入ったシーンは、村の年長者達を前に、アイヴィーの父が申し開きをする場面だった。そこで彼が叫んだ、「愛は全てを可能にする」、「愛こそが至高のものだ」、といった言葉、これらはまさに、何かを信じる力、その全面的な肯定に他ならない。信じる対象がなんらかの価値観である場合には、それが嘘であることに付随して様々な難しい問題が出てくるところだが、その対象が一人の人間であれば、ほとんどの場合、そこで恋人同士が互いを信じる事が、他の人々の脅威や迷惑につながってしまうことはない。だから彼は、一方で、村人達が民話を信じる気持ちを利用して、偽の民話を捏造する事で、村の存続を目論見ながらも、他方で、娘の持った「愛」という感情については、それを一切の留保抜きで全肯定するのだと思う。

また、ここでの年長者達とのやりとりは、いちいち全ての発言が素晴らしくて、少し泣いてしまった。泣き方向のスイッチが入ったから泣いた、というわけではないあたりが微妙なとこなんだが。まあそれはいいや。
恐怖、悲しみを廃した村、完全に怪物民話ですみずみまでコーティングされた、安全・快適な、ユートピア空間としての村を作ろうと、共通のトラウマを秘密として完全に封印、抑圧して、共同幻想の維持のみに専心して村の運営を進めてきた年長者たち。彼等もまた、結局は完全に快適で、一切の恐怖、悲しみから解放された空間を創ることは不可能である、という事実に皆気づいていた。ここで年長者の一人は、いままで積み重ねてきたものが全て無に帰ってしまう、と、アイヴィーを森の外に向かわせてしまった、父親(エドワードって名前だった。検索して思い出した。)の勝手な行動に猛反発する。言い争いが続く中、他の一人がふと口を開く。彼は兄が理由もなく殺された事から村の住人の一人となっていたのだが、そんな彼が言う。「俺は兄が殺されたてここに来た。兄は町で死んだ。他の家族は皆この村で死んだ。悲しみは人生の一部なんだ、悲しみから逃げてはいけない」そう訴える。ここで涙腺が崩壊した。エドワードを批判したおばさんの意見は、ようするに、カルト寄りになってしまっている。個人的な感情、好き嫌いという次元では何を信じても問題ないが、集団で共同幻想を形成して、何かを価値として信じましょう、となったときには、相対化の視点がないといかん。それがたとえ精神的にはつらいことであっても、そこだけは譲ってはいかん、安寧としていてはいかん、ということである。これはお笑いの言葉で言い換えれば、ユーモアとペーソス、哀愁が同居していないといかん、ということである。つまり、ここで称揚されているのは、憎悪と完全に一致した、裏切りを孕んだ愛、である。「愛は負けても親切は勝つ。」

ところで、かなり不謹慎な言い方になってしまうが、知的な障害を持ち、いわゆる通常の「意識」を持っていないノアがルシアスを刺す、という事件が発端となって、閉空間にひびが入り、そして最後に、もう一度彼が、今度は怪物の衣装を発見して、怪物の変装をして、実際にアイヴィーを襲うことで、最後のエドワードの言葉でいう、「あんたの息子さんは作り話を現実に変えたのさ」という事態、すなわち、森から帰還したアイヴィーが怪物との遭遇について「語る」であろうことで、再び閉空間の均衡が保たれることが暗示されるラストシーンの展開、これには、なにか象徴的な意味があったのかな、とも思う。さらに不謹慎な言い方でいうと、おそらく通常の人間の「意識」からはみ出す「無意識」的な要素が閉空間を切り開く、ということかな、と思うのだが、どうなんだろう。最後に、これからもこの閉鎖世界を存続させられるかもしれない、と暗示され、実際にどうなったか示さず映画が終わるところも実に面白かった。まあ普通だったら一度あそこまでやっちゃったら騙し騙しでも続けていくしかないんだろうけど、そういう常識であの映画を測ってもつまらんので、どっちのパターンでも想像できるぐらいの柔軟な頭は持っていたい。

追記
これもレディ〜同様、核心部分に反転がはいっているのを除けば、ほとんどドラクエのような展開だった。それでもだらけた感じにならないのは演出がよほど上手いんだろう。ヴィレッジ以降の三作は脚本のまずさで制作会社から猛反対を受けつつも、シャマランがそれを押し切って製作に踏み切ってきたらしいが、その話を聞いただけでも、彼は全部狙ってやっているだろうことがわかる。パッと見は稚拙なだけの、脚本のドラクエっぽさにこそ、なにかが賭けられていると考えるべきだろう。