恐怖・笑い・泣き

そもそも恐怖というのは、何に対して、どのようにして生まれてくる感情なのだろう。映画「ヴィレッジ」では、「言葉にしてはならないもの」と呼ばれる、人間の理解を越えた不気味なものが、敵として登場する。これはいわゆる「語りえぬもの」一般とその特徴を共有しており、デイビッド・リンチ監督の諸作品に登場する、説明不能な獣のイメージ(例えば、マルホランド・ドライブのゴリラとか)などと、重なる部分が非常に多いように見えた。言葉にすることのできない、恐怖を呼び起こす不気味なもの、とはおそらく「死」そのもののことであろう。単純明快、生物は最終的に死に行く運命を持っている。そして、おそらくは人間だけが、自らが死に行く生物である、という事実を知ってなお、生き続ける。人間は「意識」を持つことにより、自らが死に行く生物であることを知った。もちろん、そんな事実をそのままに受け入れることは、耐え難いことである。そんな、そのままでは耐えられない、人が生きる際に必ず避けて通ることはできない悲しみに何とか耐え、それでも生き続けるために、人は同じ「意識」を使って、「神」や「物語」という概念を創り出した。「死」そのものに、むき出しで触れてしまうことのないよう、その周囲に言葉を張り巡らせ、「神」や「物語」といった嘘でコーティングすることで、むき出しの死に触れず、生き続けることが可能となった。

しかし、嘘は嘘である。「大きな物語」の終焉とか、ポストモダンがどうしたとか、そんな話とは一切関係ないところでも、太古の昔から、人々は何度となく、「神」や「物語」が信ずるに足る対象なのか、疑う気持ちを持ってきたはずである。おそらくは、そんな疑念が発生してきた際に、それを鎮めるために、人は「笑ったり」、「泣いたり」できるようになったのではないだろうか。話が加速的に本題から逸れているが、気にせず続ける。

ここで、「笑い」と「泣き」には、共通する部分と、相反する部分があるようにみえる。日本語変だな。まあいい。両者の共通点は、ストレスに対する抗生である。若干疑似科学的な部分もあるが、涙や笑いとストレスの関係については、それなりに実験が行なわれており、思い切り、笑ったり泣いたりすることが、ストレス解消につながることは、科学的に証明されている。というか、別に科学で証明されていなくとも、普通に生活していれば、そういった笑いや涙の効果については、誰もが間違いなく思い当たるはずである。おそらく、笑い、泣きいずれの場合にも、感情の昂りから、涙の場合は直接、笑いにしても脳内物質かなんかが作用して、ストレスを鎮める効果を生むのだと考えられる。まあその詳細はどうでもよくて、要は問題なのは、効果のほうである。「笑い」、「泣き」を経ることで、ストレスが鎮められる。これが大事。

では、ここでストレスとはなにか。その「意識」における究極の形が、おそらくはむきだしの「死」に触れることである。先に述べたように、「神」や「物語」といった虚構に対して疑念が生まれてくると、「死」をくるんできた、甘い甘い糖衣にヒビが入る。僕は錠剤を飲むのが下手で、いまだに時折、うまく飲み込めない錠剤を噛んでから飲み下すことがあるのだが、そんな時はいつも、カプセルの内側に入っている薬品の苦さに、顔をしかめてしまう。それと一緒で、嘘を信じこむ気持ちにヒビが入ると、そこから苦い苦い「死」が顔を覗かせる。それに対して、生命を維持するために人間が創り出した、反射的な反応が、「笑い」、そして「泣き」なのだと思う。

「死」に直面することの悲しみに耐えるために創り出された、二つの反応、「笑い」、「泣き」は、しかし正反対のベクトルをも有している。

まず、「笑い」とは、「死」のまわりに言葉を利用してはりめぐらせてきた「神」や「物語」が嘘であることを痛感するときにこそ、起こってくる反応である。もちろんこの根源的な笑いとは別種の、より軽い笑いもまた存在する事は確かであるが、ここでは扱わない。松本人志の、千原浩史の、野生爆弾の笑いが最もその鋭さを増すのは、「死」に直接関わりあう領域に関わるネタにおいてである。立川談志の「落語は人間の業の肯定である」という言葉もまた、ここでの文脈で読み替えれば、嘘だとわかっているものにすがってしか生きていけない人間という生物に対する、諦念と赦しの眼差しから来るものであると解釈できる。そして、愛すべき我らが、カート・ヴォネガット。「そういうものだ」とうそぶきながらも、「愛は負けても親切は勝つ」という信念を生涯持ち続けた彼の姿勢もまた、諦念と赦しに満ちている。

一方で、「泣き」とは、嘘であるはずの「神」や「物語」を信じる感情が、一定以上まで昂った際に起こってくるものである。勿論笑い同様、涙にも様々な種類があることは自明だが、これは当然、所謂、感動の涙についての話でR。嘘であるはずのものを信じる事が出来たとき、人は感動の涙を流す。時に人は、純粋に因果関係のみから判断すれば、単なる偶然としかいえない出来事に過剰な意味づけを行い、それを必然、奇跡として理解しようとする。また、ある「神」、ある「物語」を信じる事、それを生きる糧とする人は今でも世界中に数多くいるし、過去にまで遡れば、ほとんどの人間がそうであったといっていいだろう。

昨今、日本には「泣ける」小説、「泣ける」映画が氾濫し、その裏で「お笑いブーム」が、もはやブームとは呼べないほどに恒常化し、テレビはお笑い芸人であふれかえる。そこでは芸人達は一分程度の持ち時間でごく短いネタを披露するか、あるいは一瞬のフリに対して、脊髄反射的にギャグを放つ。そう少なくない人間が、おそらく、それらのエンターテイメントを観て、反射的に泣いたり笑ったりすることで、なんとか精神の平衡を保っている。これは非常にヤバい(笑)状況だと思うのだが、どうなんだろう。これから先、なるべく余計な事で悩まず、楽しく暮らしながら正しく老いて、死んでいくために、必要になるのは、一方では、あらゆるものの欺瞞性を告発し、全てを笑い飛ばす力、そしてもう一方では、何かを本気で信じて、感動することが出来る力、その双方を兼ね備えた、鋭敏な感受性を養う事、これだと思う。感受性応答セヨ。

追記
「笑い」の項で例に出した人々に関しては、「笑い」サイドだけの例というよりは、「笑い」と「泣き」の間を往復し続ける、人間そのものの業を体現した例と言ったほうが正確かもしれない。というか、今書いていて気づいたがその往還作用こそが、最も重要で、例えば全てを笑い飛ばすだけでは、それは嗤いになってしまい、容易にニヒリズムへと転化してしまうだろうし、逆に一切の疑念を持たずある対象に心酔しきり、崇拝へと至れば、そこからカルトまではもう一足飛びである。カルト宗教の集会やハードコアな自己啓発セミナーや、最近の金八最終回のように、出席者全員が泣き出す、あれになってしまう。

これも今気づいたがここでいう「笑い」の側は分裂病的、「泣き」の側は神経症的傾向、ってことになるのかもしれん。いや、微妙に違うか。このへんは知識があいまいなので早目に補強せんとだ。しかし、まあ片方に偏ると危ない、ってのはここからも言える。中庸を保つというのも一つの選択肢として魅力的だとは思うが、個人的には諸欲求が適度に枯れるまでは、振れ幅大きめだけど、差し引きでちょうどバランス取れてる感じを目指すしかないだろう。中庸、悟りの感覚は老いと共に少しずつ取り入れていくのがいいかな。